学術界と社会の健全な関係作りをぶち壊す菅政権
2020年10月03日
会員選出法が今の形になったのは、2004年度の法改正を経てからだ。当時の学術会議会長だった黒川清さんは「びっくりした。まずいね、ものすごく。どうしてこんなことをしたのかわからない。議論をした形跡がないし、そういう権力パターンになっちゃったんだね。これは恐怖政治ですよ」と語った。
日本学術会議は、「日本学術会議法」という法律によって定められている機関である。法ができたのは1948年、会員が選ばれて発足したのは1949年だ。「学者の国会」という異名があったのは、当初は会員が科学者たちによる選挙で選ばれたからである。7つの部門に分けられ1部門30人ずつ、計210人。選挙権および被選挙権は、おおざっばに言うと大学卒業後2年以上経た研究活動にかかわっている人のほとんどが持っていた。
基本的には、政府に勧告したり、ときには政府から諮問を受けて答申したりする(だけの)機関だが、創設してしばらくはまさに「学者の国会」として存在感を見せていた。戦時中の科学の在り方について反省する科学者も多く、「科学が文化国家の基礎であるという確信に立つて、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される」(法の前文)という組織に率先して貢献したいと考えた科学者も多かったろう。
しかし、1959年に科学技術会議が「科学技術会議設置法」に基づいて総理府に作られ、ここが国の科学技術政策について政府に答申することになった。研究予算の配分については、1967年に文部省に設置された学術審議会が審議するようになった。こうして、政府は徐々に学術会議を科学技術政策から遠ざけていった。
1984年、会員選出方法が選挙から学会推薦制に変わった。当時、有権者約22万人、投票率60%超、という会員選挙が実施されていたが、選挙や組織の在り方に内外から疑問の声が出るようになっていた。
さらなる改革が進んだのは、中央省庁再編と同時期である。このときは朝日新聞論説委員としてウォッチしていたが、
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