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学術会議の会員任命拒否の「とんでもなさ」

学術界と社会の健全な関係作りをぶち壊す菅政権

高橋真理子 ジャーナリスト、元朝日新聞科学コーディネーター

学術会議の総会後、取材に応じる梶田隆章新会長=2020年10月2日、石倉徹也撮影
 日本学術会議の新会員候補105人のうち6人が菅首相から任命されなかった。その決定過程、理由、いずれも明らかにされていない。こんなルール無視のごり押しが「法律上可能」(加藤官房長官)として実行されるとは、学術界と社会の健全な関係づくりをぶち壊すとんでもない暴挙である。

 会員選出法が今の形になったのは、2004年度の法改正を経てからだ。当時の学術会議会長だった黒川清さんは「びっくりした。まずいね、ものすごく。どうしてこんなことをしたのかわからない。議論をした形跡がないし、そういう権力パターンになっちゃったんだね。これは恐怖政治ですよ」と語った。

戦後まもなく設立、会員は選挙で選ばれた

 日本学術会議は、「日本学術会議法」という法律によって定められている機関である。法ができたのは1948年、会員が選ばれて発足したのは1949年だ。「学者の国会」という異名があったのは、当初は会員が科学者たちによる選挙で選ばれたからである。7つの部門に分けられ1部門30人ずつ、計210人。選挙権および被選挙権は、おおざっばに言うと大学卒業後2年以上経た研究活動にかかわっている人のほとんどが持っていた。

 基本的には、政府に勧告したり、ときには政府から諮問を受けて答申したりする(だけの)機関だが、創設してしばらくはまさに「学者の国会」として存在感を見せていた。戦時中の科学の在り方について反省する科学者も多く、「科学が文化国家の基礎であるという確信に立つて、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される」(法の前文)という組織に率先して貢献したいと考えた科学者も多かったろう。

 しかし、1959年に科学技術会議が「科学技術会議設置法」に基づいて総理府に作られ、ここが国の科学技術政策について政府に答申することになった。研究予算の配分については、1967年に文部省に設置された学術審議会が審議するようになった。こうして、政府は徐々に学術会議を科学技術政策から遠ざけていった。

日本学術会議の講堂で開かれた水資源の学術シンポジウムで「18世紀テムズ川の水上交通」について講演する浩宮さま(現天皇陛下)=1987年8月4日、河合真撮影

 1984年、会員選出方法が選挙から学会推薦制に変わった。当時、有権者約22万人、投票率60%超、という会員選挙が実施されていたが、選挙や組織の在り方に内外から疑問の声が出るようになっていた。

中央省庁再編の時期に大幅改革

 さらなる改革が進んだのは、中央省庁再編と同時期である。このときは朝日新聞論説委員としてウォッチしていたが、

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