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写真判定とディープフェイク

再構成された「事実」が物語を破壊する

下條信輔 認知神経科学者、カリフォルニア工科大学生物・生物工学部教授

人は物語を生きる。
—— テッド・チャン

 何十年も前からスポーツの判定にカメラなどの機器が持ち込まれ、ますます多くの競技で使われている。その推移を振り返っているうち、「情報技術が現代人の心をどう変えたか」というより広がりのある問題にたどり着いた。

写真判定とシェアド(共有)リアリティ

 たとえば陸上100mの着順判定には、昔から写真判定が使われている。もともとゴールラインを(物理的に)先に超えた方が勝ちというのがルールだから、異論は生じない(ただスタートのフライング判定には、詳述しないが少し問題がある)。機械に任せることで「客観的」に決着がつき、トラブルも起きにくい。

拡大写真判定に対するスポーツの向き合い方は、競技によって異なる
 たぶんそういう理由から、テニスやバレーボール、バトミントンなどの球技でも、次々に取り入れられた。その結果、人と機械の関係が入り組んできた。たとえば競技者(人)の異議が一定回数認められていて、異議があった場合だけ機械が判定する。異議が成功すれば、異議の許容回数は減らない。

 これが格闘技になると、少し事情がちがう。競技者自身だけではなく、競技者側のコーチや(柔道、空手など)、中立的な立場の審判(大相撲など)が、要求できる。ボクシングでは今のところ、機械に反則や勝敗の判定を委ねるという話は聞かない。

 審判の見た目に頼らず、機械の判断に任せる。ということはつまり、個々人の知覚する「現実」=リアリティをいったん棚上げすることを意味する。代わって客観的な機械によって公平性が担保され、それを介してシェアド(共有)リアリティが再構築される。他方、今見たように常に人が介在していることは、意思決定が事実上ハイブリッド(=人+機械)であることも意味する。実際、大相撲や柔道・空手などでは、スローの映像だけで機械的に勝敗は決まらず、それを見た審判部が判断する。

 相撲ファンなら、「肘から落ちたが、相手の体(たい)がすでに飛んでいた」とか「膝はついていないが、体が残っていない」など、やや不思議な審判説明(物語)を聞いたことがあるはずだ。どこが不思議かといえば、故あって機械に委ねたはずなのに、最終的にはやはり人のプロが判断する、というあたりだ。


筆者

下條信輔

下條信輔(しもじょう・しんすけ) 認知神経科学者、カリフォルニア工科大学生物・生物工学部教授

カリフォルニア工科大学生物・生物工学部教授。認知神経科学者として日米をまたにかけて活躍する。1978年東大文学部心理学科卒、マサチューセッツ工科大学でPh.D.取得。東大教養学部助教授などを経て98年から現職。著書に『サブリミナル・インパクト』(ちくま新書)『〈意識〉とは何だろうか』(講談社現代新書)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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