黒沢大陸(くろさわ・たいりく) 朝日新聞論説委員
証券系シンクタンクを経て、1991年に朝日新聞入社。社会部、科学部で、災害や科学技術、選挙、鉄道、気象庁、内閣府などを担当。編集委員(災害担当)科学医療部長、編集局長補佐などを経て、2021年から現職。著書に『コンビニ断ち 脱スマホ』『「地震予知」の幻想』、編著に「災害大国・迫る危機 日本列島ハザードマップ」。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
被害を容認する対策は自然災害でも可能か
新型コロナの対策で、経済との両立が焦点になった。徹底的な感染防止策をとれば、経済が回らず、生活に不自由し、生きるすべを失う人々が増える恐れがあり、対策をしつつも経済活動も続ける必要性が強調される。「ウィズコロナ」という言葉も広まった。この言葉を災いによる被害をある程度は許容しつつ、社会全体としてより好ましい方向に進めていくことと捉えるなら、自然災害に対しても、ある程度の被害と共存する「ウィズ災害」という考え方はできないだろうか。コロナの終息がみえぬ年の瀬に考えた。
コロナをめぐって、政治家や経済界ばかりではなく、感染症の専門家からも、感染拡大の抑制とともに経済を回す必要性が語られた。そこには、社会を維持して国の衰退を防ぐとともに、コロナで亡くなる人の数と経済的に死に追い込まれる人の数を比較する意識も働いているのだろう。さらに、コロナで医療の現場が切迫すると、人工呼吸器が不足する事態もあり得る。使う人の優先順位を決める「トリアージ」が現実味を帯びてくる。そんな命を選別するような事態になることは誰もが望まない。その一方で、自分たちの生活や収入減を抑えるために極力いつもの生活を続けることで、感染が広がり、どこかで亡くなってしまう誰かがいるかもしれない。それも別のかたちで命を選別していることにもなる。
いま、多くの人々は、「命を守る」「感染拡大を止める」というスローガンには賛成しつつも、経済が行き詰まるような厳しい行動制限を長期間にわたって続けることまでは望まない。その社会的な合意は、一定程度の感染者の発生を許容し、その一部が亡くなる被害を黙認していることにつながる。
こうした対策は、自然災害でも「社会が許容できる被害」として展開可能に思える。技術が発達しておらず、自然の猛威を力ずく抑え込むことが現代ほどできなかった時代は、災害との共存を考えざるを得なかった。大雨で川があふれる場所など被害が常習する場所を避けて集落が発達した。水害に見舞われる地域では浸水してからの生活再建のための工夫もされた。「水屋」や「段蔵」は、集落が水に浸っても大切なものを保管するために作られた。一定程度の被害を容認した対策だ。
ある程度の被害と共存するウィズ災害の視点で考えると、ダム、堤防、防潮堤などで、外力を徹底的に抑えこむことへの過剰な投資はひかえ、予算や人的な資源配分を社会全体が向上するように有効配分していく方向に政策が傾けられる。例えば洪水が起きたときに被害が少ない場所への対策、極めて希にしか起きない災害に対する備えはひかえて、その分の予算や人的な資源を、いま困っている人々が救いを待つ貧困のような社会課題の解決に振り向けていく。防ぐためにかかる費用と、被害規模や復旧にかかるコストを丁寧に比較検討することは、大切な税金や子孫たちから借りているお金を使う前に欠かせない。地球温暖化で風水害が増えると叫ばれ、悪化している財政にコロナ禍が拍車をかけ、人口減にも直面しているのだから、この国を持続可能なものするためにも、その徹底や社会的合意づくりが今まで以上に必要になってくる。