なぜ「失敗」と本人が総括する事態になったのか
2020年12月31日
2020年12月7日に飛び込んできた元文部大臣・有馬朗人さん死去のニュースは関係者に大きな衝撃を与えた。90歳になっても武蔵学園学園長はじめ多くの役職につき、元気に飛び回っていたからだ。近年は一人暮らしをしていて、自宅で倒れていたところを迎えに来た運転手が見つけたのだという。
業績を伝える記事では「ゆとり教育」の推進者としての足跡が大きく取り上げられたが、大学改革にも、いや、大学改革にこそ元東大学長として余人をもって代えがたい影響力を発揮した。
理論物理学者として原子核の内部構造を解き明かす世界的業績を挙げ、俳人としても超一流という有馬さんが、大学改革にどうかかわってきたのか。できるだけ丁寧に振り返ってみたい。
有馬さんが理学部長から総長特別補佐となった1987年ごろ、東大では「大学院重点化」が議論されていた。国立大学の予算は学部に配分され、そこから大学院に再配分される当時の仕組みでは、大学院は貧乏なままだというのが有馬さんたちの問題意識で、理学部はその仕組みを変えるべく独自に「理学院構想」をまとめた。学部3、4年の学士課程、その後の修士、博士課程を一体化した教育組織を作るというアイデアだった。医学部出身の森亘学長も大学院を重点化したい考えだった。
しかし、文系学部から反発が出た。ほとんどが学士で卒業する文系は理系とは事情がまるで違うというわけだ。
1989年に学長選挙があり、有馬さんは3回重ねた投票でいつもトップだったが、当選に必要な過半数を集めることができなかった。決選投票の結果は、教養学部の本間長世教授と同数。前代未聞のくじ引きで、第24代学長が有馬さんに決まった。
大学院重点化に向けて組織改革を最初に実行したのは、意外なことに法学部だった。91年に学部所属だった教員を「研究科」所属に移した。既存の制度の中でできる方法を見いだしたのはさすが法学部と言うべきか。こうした先行事例に刺激されて政府も動き、大学院の学生数やスタッフ数を増やせるように制度改正を進めた。理学院構想は立ち消えとなったが、理学部の中から自発的に改革の構想が生まれたことは高く評価すべきだと私は思う。
学長になった有馬さんが社会に強く訴えたのが「大学貧乏物語」(1996年に出版された著書のタイトル)である。大学院が貧乏というより、大学自体が貧乏なのだと主張の力点を変えた。その訴え方の特徴は、データを元に論じる点にあった。日本政府が高等教育に投じる金額が少なすぎるとGDP比を国際比較して示すのだった。
このころ、私は
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