チャレンジャー事故、風力発電からの教訓を今こそ生かすとき
2021年03月09日
東京電力福島第一原子力発電所事故(福島原発事故)に関して、筆者が忘れられないあるドキュメンタリー番組がある。事故が起きた2011年の11月にNHKが放送した、「シリーズ原発危機 安全神話 ~当事者が語る事故の深層~」がそれだ。
次々に登場する原子力関係者が「起こることがないとされた事故がなぜ起きたのか」について証言する内容は圧巻であった。なかでも筆者に強い印象を残したのは、「安全神話」が作為的な欺瞞としてつくり出されたというよりも、常識的・良心的な配慮に淵源を持ちつつ、しかし技術と社会の相互作用の中でさながら亡霊のように肥大化したその機微だ。
安全神話はその後、乗りこえられたのだろうか。残念ながら、性質の異なる新たな神話が再生産されていると筆者は危惧している。ではどうすればよいのか。他の技術の例も取り上げながら考えてみたい。
「安全神話」という語は事故発生から10年を経た今日、「事故は決して起きない」という非科学的、非論理的な信念が安全よりも他の利害を優先する中で原子力分野において構成・共有されたこと、そしてそれが組織や人びとの振る舞いを拘束したことにより、本来取り得た、そして有効であったはずの安全上の手立てが講じられず、甘んじて事故の発生を目撃したその一連の顛末を指して用いられている。
しかし、先に紹介した番組で当事者が語る内容は、それが「他の利害を優先」どころか、むしろ「安全を最優先」することに起源を持つことを示唆する。
日本は原発に関して「ソフト面」も含めた多くを米国から導入したが、米国での原発立地のガイドラインは、万一の事故の際の避難等を容易・確実にするために「低人口地帯」を設けることを求めていた。しかし、日本の国土は隅々まで高度に開発されていて、原発は(米国の感覚からすれば明らかに)人口稠密な地域に隣接せざるを得なかった。
番組の中で、当時の議論を知る元科学技術庁行政官が語る。「万一の場合には避難などということでは、いくら何でも原発の立地は認められなかったのではないか」と。そこで、日本では、避難等を要するような重大事故を「起こさないようにする」前提で原発立地を進めることになった、というのである。
もちろん、それが端的に誤りであったことは今や明らかだ。「起こさないようにして」は「起きないことにして」に転化し、安全神話となった。しかし、なぜこのニュアンスの変化は生じ、定着してしまったのか。
ここで紹介したいのが、
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