疾患を悪化・拡大する「構造的暴力」
2021年03月29日
「これはパンデミックではない」などと書くと、まるでパイプの絵を見せながらその下に「これはパイプではない」と書かれている、ルネ・マグリットの絵画『イメージの裏切り』みたいだ。いま起きている新型コロナウイルス感染症(COVID-19、新型コロナ)は間違いなくパンデミック、つまり世界的流行を起こしている。
昨年9月、有名な医学雑誌『ランセット』で、「COVID-19はパンデミックではない」という論評記事を読んだとき、このマグリットの作品を思い出した。著者は同誌の編集長で、ロンドン大学衛生熱帯医学大学院名誉教授のリチャード・ホートンである。ホートンは、新型コロナはパンデミックではなく、「シンデミック(syndemic)」である、という。
シンデミックとは何か? シンデミックは「シナジー(synergy、相乗効果)」と「エピデミック(epidemic、疫病の流行)」を合わせた言葉で、医療人類学者メリル・シンガーが1990年代に考案した言葉である。シンガーを踏まえて筆者なりに定義すると、人々が2つ以上の病気を同時に発症し、それらが相互作用することで病状が悪化し、さらに「社会的・環境的要因」によってそれが助長され、そして拡大(≒流行)することである。
ホートンは、新型コロナと一連の「非感染性疾患(NCD)」が「特定の集団内」で相互作用しており、そうした状況が私たちの社会に深く埋め込まれている「不平等のパターン」に沿って拡大している、と指摘する。つまり新型コロナのパンデミックの影響は「社会経済的な不平等」によって悪化している、と。「私たちが直面しているこの脅威のシンデミックな性質は、コミュニティの健康を保護するためには、より微妙なアプローチが必要であることを意味する」とホートンは主張する。
シンガーやホートンの見解を踏まえれば、新型コロナのパンデミックを理解し、それを収束させるためには「シンデミック」という概念を前提としたアプローチ(シンデミック・アプローチ)が不可欠である。
シンガーによれば、シンデミック・アプローチは、2つ以上の疾患と、それらの相互作用による悪影響を促進する社会的・環境的要因からなる「生物社会複合体」に着目する(図参照)。これまでそれぞれの疾患は、他の疾患とは別のものであり、また社会的背景とも別のものと考えられてきた。しかしこのアプローチは「社会環境、とくに社会的不平等や不公正な状況が、疾患のクラスター化(集団化、拡大)や相互作用、さらには脆弱性の原因となっていること」を明らかにする、とシンガーらは2017年の段階で『ランセット』に書いている。彼らの説明は簡潔だ(強調は粥川による)。
シンデミックは、あらゆる種類の疾患や健康状態(感染症や慢性非感染性疾患、メンタルヘルス問題、行動障害、毒物への曝露、栄養失調など)の間での有害な相互作用を内包している。そしてシンデミックは、貧困やスティグマ化、ストレス、つまり構造的暴力によって引き起こされる健康の不平等という条件下で出現する可能性が最も高い。
「慢性非感染性疾患」とは、ようするに高血圧や糖尿病など、いわゆる生活習慣病であり、新型コロナのパンデミックが起きてからは、その症状を悪化させる「基礎疾患」として広く知られているものである。「スティグマ」とは、筆者が昨年7月と今年3月初めに論じたように「多数者から押し付けられる否定的な評価」のことである。「差別」と言い換えてもかまわない。
「構造的暴力」とは、ノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥングが提唱した概念で、特定の個人や集団ではなく、不公正な社会構造によってもたらされる暴力の形態のことである。そして「健康の不平等」は、貧しい者ほど不健康な状態を強いられる、といういわゆる健康格差のことだ。それを引き起こす原因のことを「健康の社会的決定要因」と呼ぶこともある。
彼らによれば、最初にシンデミックとして文献に記述されたものは「薬物乱用、暴力、エイズ」であり、それらはまとめて「SAVA(substance abuse, violence, and AIDS)」と呼ばれた。このことは都市における薬物使用者らのHIVに関する研究で認識されるようになった。HIV/AIDSの感染拡大は、結核や性感染症、肝炎など都市で生じやすい疾患と密接にかかわっているだけでなく、高い失業率や貧困、ホームレス、過密な状態など都市に特徴的な条件に影響されているのである。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください