学術会議史話――小沼通二さんに聞く(1)
2021年05月05日
小沼通二(こぬま・みちじ)氏略歴
1931年東京生まれ。東京大学大学院、理学博士。東大、京大、慶應義塾大、武蔵工大に勤務。主な研究分野は素粒子論、科学と社会。日本学術会議原子核特別委員会委員長、パグウォッシュ会議評議員、世界平和アピール七人委員会委員・事務局長など歴任。近著に『湯川秀樹の戦争と平和』(岩波ブックレット)など。
――敗戦後、学術会議誕生までの流れはどんなものでしたか?
敗戦後すぐ、日本の学界には学術体制を変えなくてはいけない、という機運がありました。戦前戦中の体制は、文部省のもとに学士院、学術研究会議、日本学術振興会という3団体がそれぞれ役割を担うというものでした。この3者が改組に向けて動きだしたわけです。「3団体改組準備委員会」というものができました。1946年のことです。
連合国軍総司令部(GHQ)は、その動きを黙って見ていたわけではありません。学界指導層が3団体の改組を微調整で済まそうとしていることに不満がありました。その中心にいたのが、戦後日本の学界の民主化を推し進めたGHQ経済科学局科学技術部基礎科学課長の ハリー・C・ケリー(1908~1976)という物理学者です。彼が声をかけたことで、科学渉外連絡会という組織が生まれました。ここで重要なのは、声をかけた相手が中堅世代の科学者だったことです。
――中堅世代というと、どんな顔ぶれ?
物理学者で言えば、後に学術会議の会長になり、東大総長も務めた茅誠司(1898~1988)、後に日本原子力発電の副社長などに就いた嵯峨根遼吉(1905~1969)といった人々です。植物学者の田宮博(1903~1984)もいました。当時、彼らはまだ40歳代でした。
――GHQの不満は、学界に軍事研究回帰の気配があったからですか?
いや、大御所も含めて軍事研究を続けたいという人はいなかった。皆無と言ってよいでしょう。GHQが気に入らなかったのは、改組を微調整で済まそうとしたこと。旧体制を守ろうとしていたことです。ケリーは「トップダウンではなくボトムアップで」と主張して、科学渉外連絡会のメンバーに、科学界の広範な意見にもとづいて学術体制を刷新する組織をつくるよう働きかけたのです。これに伴って、旧体制の3団体改組準備委は解散し、1947年夏、「学術体制刷新委員会」ができました。
ケリーは日本の原子核・素粒子研究のリーダーだった仁科芳雄(1890~1951)とも親交があった。本気になって日本の基礎科学をちゃんとさせようと思っていました。亡くなった後、遺族の意向で仁科の多磨霊園(東京・多摩地域)の墓に分骨埋葬されたほどでした。その後、仁科を師として慕っていた朝永振一郎(1906~1979)もここに分骨埋葬されました。僕も行ったことがあります。
――その学術体制刷新委員会について、説明してください。
法、文、経、理、工、農、医の7分野から15人ずつ、総合部門の3人を加えて総勢108人の委員を選挙で選びました。これ、すごいでしょう。戦時中に科学者にも及んだ総動員体制から2年しかたっていません。まず、行動様式を変えることから始めようとしたわけです。
選挙は手さぐりだったようです。理系は分野ごとの学会が全国に網を張っていて、これが役立ったのですが、文系はネットワークが弱い。短期間に資格を持った研究者を登録させ、選出母体として絞っていって、最終的には互選で委員を決めたともいわれています。
――人文・社会系も含まれていたわけですね?
戦前の学術研究会議は理系の組織だったのですが、戦時中に人文・社会科学分野の会員を含めることにして、総動員体制に繰り込みました。法学者が東南アジアの法律制度を調べる、哲学者が「大東亜戦争」の人類史的意義を考える……というようなことがあったわけです。
学術会議で2005年まで続いた7分野体制は、帝国大学の学部体制と学術研究会議の分野構成を受け継いだものです。文系理系を一つにした体制という伝統は、今の学術会議にまで続き、現在の総合科学技術・イノベーション会議でも採用されています。皮肉なことに、それは戦時中の総動員体制に原点があったのです。
――で、刷新委員会は何をしたんですか?
この委員会こそが、学術会議の基本設計をしたのです。
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