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人種差別、女性蔑視発言はなぜなくならないのか

そこに「注意」を向けすぎていることにこそ問題がある

下條信輔 認知神経科学者、カリフォルニア工科大学生物・生物工学部教授

 米国では人種差別を巡る分断・対立がますます先鋭化している。他方日本では、2月に東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長が、懲りない女性差別的失言で辞任するなど、性差別を糾弾するニュースや論調がメディアをにぎわしている。これほどの社会的努力にもかかわらず、なぜ差別はなくならないのだろう。

東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長は女性蔑視発言の責任をとり、辞任を表明=2月12日、東京都中央区

 本欄でも一応の答えは示したことがある。「差別そのものはむろん悪だが、一面ヒトの認知の本性に根ざしていて、それは、経験にもとづく直感的な判断(ヒューリスティック)であり、適応的に進化しており、簡単には覆せない」。おおよそそういう趣旨だった(本欄拙稿『差別はなぜなくならないのか』)。これ自体誤りではないと今でも信じているが、ここへ来て少しちがう側面にも気づいた。またそれを追求するうちに、前稿で述べた「注意のスポットライト的性質」とも関連することがわかってきた(『共感の「害」を考える』)。

 炎上しかねない「危険な」テーマだが、深堀りする価値はありそうだ。

カリフォルニアの高校での抗議

 この問題を再考しはじめたきっかけは、我が家の高1の息子が通う学校で起きたちょっとした事件だった。なんでもマイノリティの生徒への扱いが、地元メディアで問題視されているという。生徒間でもちょっと話題になったらしい。政治正義(ポリティカル・コレクトネス)を教える、「生活倫理」のようなクラスでのことだ。教師が人種的マイノリティの生徒ひとりひとりに皆の前で、差別に絡む自分の体験を語らせた。米国では、カウンセリング集会などでも見かける普通の光景だが、結果生徒がかえって自分の人種的出自をズームアップされ、不快な思いをした、と両親が抗議したらしい。これに類することは実は今回に限らず、いろいろあるようだ、と息子は言っていた。

 冒頭でも述べたように、人種差別に抗議する「ブラック・ライブズ・マター(Black Lives Matter)」の運動をきかっけに米国社会の分断は深まり、アジア系住民への暴行なども問題になっている折、政治正義を求める声はますます大きい。息子の学校はカリフォルニアの私立校だが、人種差別の問題にはむしろ敏感すぎるほどだと思っていた。社会科学や心理学などのクラスでも時間を割いて、差別問題に多大の注意を向けている「民主的な」学校。それが筆者ら親たちの持っている印象だったので、余計に驚いたわけだ。

 しかしこの「敏感すぎるほど」「多大の注意を向けている」点にこそ問題があるのでは、と今頃気づいた。

 先の高校の件は、学校側が謝罪し「さらなる努力」を約束したことで、大事には至らず、かといって深く掘り下げられることもなく終わった。しかし見方によっては、差別に関わる潜在意識の本質的な問題が浮かび上がっている。それはつまり、差別の対象である人種や性別などにばかり目がいってしまうことによる、分断のパラドクシカルな再生産、といったことだ。

どこに注意を向けるかが、不満の噴出口を決める

 最近のアジア系へ暴力事件の背景には、トランプ前大統領の「コロナウィルスは中国が持ち込んだ」という発言があるという説がある。ただそれ以前に、アジア系への不満が、白人労働者階級や一部黒人の間に蓄積されていた。もともと移民なのに、黒人よりは一般に高学歴・高収入で、黒人ほどにはあからさまに差別されてこなかったことが、歴史的背景としてある。

 本欄前稿で、反共感論に絡めて「注意のスポットライト的性質」について述べた。先のトランプ発言も含め、人種のちがいということにスポットライトが当たり続けている。差別的な扱いを受けた被害者は、本当は多様かもしれない原因を、単純に人種に帰すだろう。また人種の軸上で正義を主張することは、

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