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続・人種差別、女性蔑視発言はなぜなくならないのか

オリパラ、ワクチン問題にも共通する解決策を探る 

下條信輔 認知神経科学者、カリフォルニア工科大学生物・生物工学部教授

 差別をなくす政治正義は、「そこにばかり無意識の注意が向く」負の効果を持つかもしれない。そういう問題意識から注意の認知心理学も参照し、差別の問題を掘り下げている(前稿)。これは何も差別の問題に限らない。

オリ・パラ全体としての「コスパ」は?

 現代社会のさまざまな局面で、注意の過剰な焦点化は起こっている。たとえば現在の日本で言えば、オリ・パラ問題がそうだ。前稿の冒頭でふれた森喜朗オリ・パラ実行委員会前会長の失言問題は、理事や候補者の性別にばかり、世論の注意を固着させた。

 またオリ・パラ関係の番組や記事を見ると、選手に焦点を当てたストーリーが多い。「一生に一度かもしれないチャンスに賭けてきた選手のために」なんとしても開催を、という論調だ。しかし観客入りで実施すれば、ほぼ死者が出る。そちらにスポットを当てたなら、全然ちがう方向に世論は誘導されるだろう。たしかにオリ・パラ出場は人生の一大事だが、命以上のものはない。それに重症化する人も含めると、たぶん数が桁外れにちがう。

東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の橋本聖子会長=5月19日、東京都中央区

 だが、こちら側にはスポットライトを当てにくい心理的な理由が、実は多数ある。まず第一に、オリ・パラ開催に伴う犠牲者は不可避だとしても、まだ存在してない。現在や過去でなく、未来のシミュレーションにすぎない。その上こうした未来の犠牲者は、なによりもまだ匿名だ。その個人の具体像が描写できない、等々。

 本来ならオリ・パラのような巨大な国際イベントについては、全体としての「コスパ」が、巨視的に判断されなければならない。出費に対する経済効果というだけではなく、国際協調やイメージ効果も含めて。開催による感染者・死者がどれほどになるかというのも、そうした判断材料のひとつだ。ところがセクハラ・パワハラや、選手の困難を乗り越える感動物語は、個別事例に注意を固着させる。つまり個が全体を引きずることになる。

 騒げば騒ぐほどにますます、対策の可否ですらが、その次元上だけで判断されるだろう。たとえば、実行委員会の長にセクハラ発言があったからといって、あわてて女性ばかりを理事に並べれば解決するというものではない。人種問題でも、黒人や性的マイノリティを一定比率で要職につけるという対策だけでは、本質的な意味での解決からは遠い。

 こういう対策が悪いと言いたいのではない。解決への第一歩としては、必要な場合も多いだろう。ただ同時に、注意の焦点化によって認知的に大きなコストを、実は払っている。はたしてそのことに何人が気づいているかという、これは問題提起だ。セクハラ問題についていえば、後継者の性別ではなく、ダイバーシティ(多様性)意識を含めた良識や判断力、専門性で判断するなら、注意の固着した次元を超え出ることができる。

注意のスポットライトが、巨視的で合理的な判断を妨げる

 東京電力福島第一原発の処理水の海洋放出問題でも、面白いニュースがあった。海洋放出は早くても2年後という計画なのに、韓国内の日本産水産物の消費は、すでに大きく萎縮しているという。合理的に考えれば、

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