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学術会議が原子力3原則を唱えた事情/軍事をなによりも警戒した

学術会議史話――小沼通二さんに聞く(2)

尾関章 科学ジャーナリスト

 日本学術会議が科学技術政策に大きな影響を与えたものに何があるか。思いあたるのは原子力だ。1950年代半ば、国内では政界も学界も原子力開発に前向きだった。大きな違いは、学界が「平和利用」限定に強くこだわったことである。学術会議は「公開・民主・自主」の3原則を提唱、それを原子力基本法に反映させた。半面、原子力事故のリスクが十分に議論されたとは言えない。3原則はどのような事情で発想されたのか――学術会議史話第1回(「学術会議の原点は『ボトムアップ』、第1期にもあった任命拒否」)に続けて、慶応義塾大学名誉教授の物理学者、小沼通二さんに聞く。=文中敬称略、このシリーズは随時掲載しています。

小沼通二(こぬま・みちじ)氏略歴
1931年東京生まれ。東京大学大学院、理学博士。東大、京大、慶應義塾大、武蔵工大に勤務。主な研究分野は素粒子論、科学と社会。日本学術会議原子核特別委員会委員長、パグウォッシュ会議評議員、世界平和アピール七人委員会委員・事務局長など歴任。近著に『湯川秀樹の戦争と平和』(岩波ブックレット)など。

――学術会議で「原子力」が語られるようになったのはいつごろですか?

 日本学術会議が発足した1949年、ソ連が初めての核実験をしました。学術会議はその直後の10月、第4回総会で声明を発表します。「日本学術会議は、平和を熱愛する。原子爆弾の被害を目撃したわれわれ科学者は、国際情勢の現状にかんがみ、原子力に対する有効なる国際管理の確立を要請する」。これが全文です。

「原子力と言えば軍事」の時代

――原子力という言葉に軍事利用の意味合いを込め、それに対する警戒感を表明しているわけですね。原子力と言えば、まず核爆弾で、「平和利用」という発想がまだ育っていなかった?

 当時は、平和利用の機運は高まっていませんでしたね。もちろん、19世紀の末に発見された放射線を科学技術や医学に使うということは広がっていましたが。

――学術会議誕生時、日本は占領下にありました。連合国軍総司令部(GHQ)は、日本の原子力をどうみていたのですか?

 GHQは、真っ先に日本の陸海軍が原子核エネルギー利用の可能性を探ろうとした研究を調査し、根を断とうとしました。日本の原子核物理学者が敗戦前につくったサイクロトロンと呼ばれる粒子加速器の利用をいったん許可しましたが、まもなく取り消して、米国政府の命令だとして日本にあった4基すべてを接収、破壊して海洋投棄しました。その後、原子核の実験研究は、かなりの間認められませんでした。

拡大日本学術会議の学問・思想の自由保障委員会委員長を務めた羽仁五郎氏

 学術会議に設けられた「学問・思想の自由保障委員会」(羽仁五郎委員長)は、戦中戦後の科学研究の管理・統制を調べていたのですが、このなかで原子核物理学も調査対象にしました。委員だった物理学者の坂田昌一と武谷三男は、原子核物理学規制が、連合国の最高政策決定機関「極東委員会」(在ワシントン)の指令を受けた原子力研究禁止の方針に拠ることを確認しました。原子核研究は原子力研究の基礎です。原子力の研究開発を規制するには、まず原子核の実験から、ということだったわけですね。

 武谷は、「坂田昌一氏と私は日本における原子力研究の自由を提案し、羽仁五郎委員長は占領軍GHQにこの申入れを行なった」(武谷編『原子力発電』岩波新書)と書いています。実際のところは、戦後の混乱と経済状態の悪化のなかでは物理学者が原子核実験を始められる状況になかったのですが。

占領終了後、「平和利用」の機運

――GHQ側も、日本が原子力を軍事利用する芽を摘みたかった。そんな感じがしますね。学術会議内に「平和利用」論が高まるのは、いつですか?

 1951年9月のサンフランシスコ講和会議直後、10月の学術会議総会時の第4部会(理学)で、物理学者の伏見康治が原子力技術の研究再開の検討を提起しています。

拡大戦後初めて再建されたサイクロトロン= 1952年
 1952年4月末に占領が解かれると、原子力の研究禁止はなくなりました。学術会議内では、副会長で物理学者の茅誠司が7月に「原子力問題は、産業・科学・政治などあらゆる面から慎重な検討が必要だ。学術会議の調査能力は不十分なので、政府に原子力委員会のような特別の機関を設置することを申し入れよう」と提案しました。

 その後、紆余曲折はあるのですが、茅と伏見が「茅・伏見提案」と呼ばれる構想を1952年10月末の総会に提出したのです。提案は、政府に対して原子力問題の申し入れするかどうかを翌年4月の総会で検討する、この問題を周知させて学界内にどんな意見があるかを把握する――などの内容でした。

 参考資料として、政府に、学界を中心にして産業界、国会代表、官界を加えた委員会を設置するように申し入れようという案が添えられてあり、さらに伏見の「原子力発電に関する二三の常識的資料」も提出されました。

――原子力を発電に、という発想が提起されたということですね?

 日本ですぐ始めようとか、できるだろうとは考えていませんでした。資料も、世界の動向の紹介でした。この総会より前の1952年夏、伏見は茅からの依頼もあって、原子力研究の準備を始めようと考えて、専門家を訪ねて調査を始めました。これを知った物理の若い研究者たちが伏見に説明を求め、伏見も研究者の意見を聞きたいということになって、9月に東京、神戸、大阪で非公式の会が開かれたのです。東京の会では、僕も聴衆の一人としてその場にいました。

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筆者

尾関章

尾関章(おぜき・あきら) 科学ジャーナリスト

1977年、朝日新聞社に入り、ヨーロッパ総局員、科学医療部長、論説副主幹などを務めた。2013年に退職、16年3月まで2年間、北海道大学客員教授。関心領域は基礎科学とその周辺。著書に『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』(岩波現代全書)、『量子論の宿題は解けるか』(講談社ブルーバックス)、共著に『量子の新時代』(朝日新書)。週1回の読書ブログ「めぐりあう書物たち」を開設中。

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