学術会議史話――小沼通二さんに聞く(3)
2021年06月21日
日本学術会議は1954年、政治主導の「原子炉予算」が通ったことに反発して、原子力の研究と利用に対して「公開、民主、自主」の3原則を求める声明を発表した(学術会議史話2「学術会議が原子力3原則を唱えた事情/軍事をなによりも警戒した」)。その後、原子力をめぐって学術会議と政治はどのような関係にあったのか、翌1955年にはどんな事情で3原則が原子力基本法に盛り込まれたのか。今回も引きつづき、学術会議史に詳しい慶応義塾大学名誉教授の物理学者、小沼通二さんに聞く。=文中敬称略、このシリーズは随時掲載しています。
小沼通二(こぬま・みちじ)氏略歴
1931年東京生まれ。東京大学大学院、理学博士。東大、京大、慶應義塾大、武蔵工大に勤務。主な研究分野は素粒子論、科学と社会。日本学術会議原子核特別委員会委員長、パグウォッシュ会議評議員、世界平和アピール七人委員会委員・事務局長など歴任。近著に『湯川秀樹の戦争と平和』(岩波ブックレット)など。
――1954年春に原子炉予算が成立して、原子力利用が政治主導で動きだしました。学術会議は、それに3原則で対抗したわけですね。このあと、3原則を絵に描いたモチに終わらせないために、なにか手を打ったのでしょうか?
1954年4月の総会では、原子力問題を扱う第39委員会からの提案が、3原則の声明のほかにも二つ、可決されています。一つは、臨時委員会の第39委員会を常置委員会の「原子力問題委員会」に改組するというものです。人文・社会科学と自然科学、合わせて七つの部の会員が参加する点は変わりませんでした。常置委員会をつくったということは、これからも原子力の問題と取り組んでいくという意思の表明でした。もう一つは、政府に対する申入れで、原子炉予算の使用方針や原子力問題の重要事項については、学術会議に諮問してほしい、という内容でした。
――3原則を法律にしようという構想もあったのですか?
原子力問題委員会は、総会声明を守ってもらうためには原子力基本法の制定が望ましいとして、法規小委員会をつくって検討しました。教育基本法が基本原則と基本精神を定めているのと同様に、原則を明確化したいと考えたのです。しかし、憲法―基本法―個別法という関係が当時は例外的だったこともあって、法学部関係者の間でも意見の違いがありました。
春の総会での「声明」と秋の総会の「申し入れ」で微妙な違いがあるのは、公開の原則についてです。春は「一切の情報」が「完全に公開」されるでしたが、秋には「研究・開発・利用およびその成果に関する重要な事項は、すべて国民がこれを知ることのできるように、公開されること」となっています。「一切」が「重要な事項は、すべて」に変わっています。
――学術会議は、政府内でも原子力政策に関与していくのですか?
政府は、1954年5月に原子力利用準備調査会を発足させました。会長は副総理、副会長は経済審議庁(後の経済企画庁)長官、メンバーは大蔵大臣、文部大臣、通産大臣と経団連会長、それに学術会議の茅誠司会長と原子力問題委員会(旧第39委員会)の藤岡由夫委員長が学識経験者として名を連ねました。この下に具体的業務を進めるため、政府の官僚、学者、財界人、日銀副総裁という15人の専門委員からなる総合部会が置かれて、学術会議原子核特別委員会の朝永振一郎委員長も加わっています。
――朝永はどういう役割を果たしたのでしょう?
朝永は、学術会議の会員ではなかったのですが、原子核特別委員会の委員長でした。1954年春の総会前には、委員会内の多様な議論を絶妙のバランス感覚でまとめあげ、その結論を第39委員会に伝えました。これは前回、お話ししたことです。
原子力利用準備調査会の総合部会でも、そのバランス感覚が大いに発揮されました。総合部会は第2回会合で、「原子力の研究開発は平和利用を根本原則としている」として「公開」「民主」「自主」の3点に留意することを申し合わせます。もっとも「公開」については「原子力の研究開発に関しては可及的に公開するよう努める」となっていて、努力目標のようにも読めるところが学術会議内で批判の的となるのですが、これも3原則を政府の政策に反映させるためにとった朝永のギリギリの譲歩だったのでしょう。
それでも総合部会は、1954年秋の学術会議総会の申し入れも了承しています。僕は、専門委員に朝永が入ったことが、学術会議と政府の橋渡しにとって、決定的に重要だったと思っています。朝永は、原子力研究の開始に当たって、問題を一番深く考えていたと言えるでしょう。
――原子炉予算は何に使われたのですか?
予算は通産省工業技術院の補助金として使われることになりました。1年目は、海外調査団を派遣したことや国立国会図書館に原子力関係文献を集めること以外、ほとんどまとまった使い道がなく、予算のかなりの部分は翌年度に繰り越しました。海外調査団は14人で、1954年末から翌年春まで欧米15か国を回りました。
――2年目は?
1955年には、年の初めから大問題が起こります。米国が、ウラン235を多く含む濃縮ウランを提供する用意がある、交渉はすぐにでも始められる、ただし原子力双務協定を結ぶ必要がある、と言ってきたのです。学術会議の原子核特別委員会と、原子核・素粒子理論研究者の自主的な全国組織である素粒子論グループ――僕もその一員でした――は、待ったほうがよい、と主張しました。国連の第1回原子力平和利用国際会議が8月にジュネーブで開かれる予定であり、その場で世界各国の情報が公表されるだろうから、それを見てから決めるべきだ、と言ったのです。
それでも政府は、5月に濃縮ウラン受け入れを決め、6月には交渉に入り、20日間で仮調印。外務省の協定日本語文に重大な誤訳があることに学術会議が気づいて、外務省に指摘することまでありました。
――原子力平和利用3原則は、1955年末に原子力基本法に盛り込まれましたね。どうして、そんなにすんなりと?
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