女性、若者、アーティストよ、支配してきたオッサンたちとの闘いに立ち上がれ!
2021年06月23日
2008年1月、福田康夫首相(当時)が、ダボス会議で巻頭特別講演として、日本の温暖化対策に関するスピーチをしました。福田さんは徹頭徹尾、原稿から目を上げることもなく、ひたすら日本語原稿を読み続けました(もちろん日本語で!)。
やる気さえあれば、英語に翻訳された原稿だって暗記することも不可能ではないでしょう。ともかく、やる気も、伝える気も全く感じられないのです。聴衆とのアイコンタクトもなく、ひたすら目を原稿に落として、必死に日本語を読み上げていたにもかかわらず、自分で書いた原稿ではないので、内容が頭に入っていないのでしょう。重要な数行をすっ飛ばして読んでしまうという、ていたらくです。
前もって提出した質問原稿を野党が読み上げ、官僚が作った答弁原稿を首相が読み上げる……。こんな国会を、半世紀以上も平気で続けているので、福田さんも他人が書いた原稿棒読みのスピーチ(そもそも『スピーチ』ではありません。『リーディング』です)が、国際社会ではいかに一国の元首として恥ずかしいものであるか、無感覚になっているのでしょう。
先日国会で蓮舫議員に「そんな答弁だから国民に伝わらない!」と責められた菅首相が、「失礼じゃないか」と逆切れする場面がありましたが、蓮舫さんは失礼じゃありません。本当のことを言ったまでです。
菅さんも官僚が作った答弁原稿からあまり目を上げない。プロンプターを使うと言っているそうですが、そういう問題ではなく、自分の考えを自分の言葉で説得力を持って話すことができないという問題です。日本はスピーチ能力がない人でも平気で政治家になり、首相にまで昇り詰めることができる国なのです。
明治以来の日本首相の演説で、私が感動し、記憶しているものは一つもありません。しかし、リンカーンのゲティズバーグの演説、ケネディの大統領就任演説、キング牧師の「I have a dream」演説など、欧米の政治家の演説は一部暗唱できるものがいくつもあります。メルケル独首相が、コロナ対策として国民の自由を奪うロックダウンを、不本意ながら行うことを説くスピーチなど、日本語で読んでも感動します。福沢諭吉が気に病んだ、日本語が演説に向いていないという問題ではないのです。
明治の始め、米国を視察した福沢諭吉が、米国民主主義を考察して『スピーチ』と『ディベート』がその根幹であると考え、それぞれ『演説』と『討論』という訳語を創造して日本に導入し、慶応義塾に『三田演説館』をつくり、大隈重信も早稲田に雄弁会をつくり、演説を奨励しましたが、以来150年、いまだに日本人は『演説』する能力を獲得していないのです。
以前、NHK地方局のニュース番組にコメンテーターとして出演したことがあります。開始前に『台本』を渡されました。生放送で時間通り進行しなければいけないという制約があるからなのでしょう。台本には私のコメントが書いてあったのです。私がこんなことを言うのじゃないかと
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