世界遺産登録を前に、縄文文化の世界史的な意味を考える
2021年06月28日
北海道・北東北の縄文遺跡群の世界遺産登録がようやく決まる見通しだ。縄文文化がもつ私たちにとっての意義を、ここで改めて考えてみたい。
国の特別史跡「三内丸山(さんないまるやま)遺跡」をはじめとした「北海道・北東北の縄文遺跡群」が今年5月、事前審査する諮問機関によって「登録」を勧告された。7月にオンラインで開かれる世界遺産委員会で、正式にユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産に登録される見通しだ。
縄文文化はまずは日本列島の文化である。ではこの列島における縄文文化の意味とは何だろうか。
三内丸山遺跡の衝撃とは何だったろうか。
日本の中心はヤマト、これが常識――。
弥生時代に確立された稲作農耕を基幹とする〝瑞穂(みずほ)の国〟こそが日本文化の基層、これも常識――。
弥生文化は西日本発。日本の国は西から生まれ、東日本は後発である。なかでも遅れた地域・東北、これも常識――。
そうした常識を、一発で覆すものが検出された。それが三内丸山遺跡だったのである。それは縄文文化そのものの内容を書き換えた。多くの遺跡の見直しや新発見も進み、今では弥生以前の日本の、豊かな精神性で彩られた基層文化として縄文は意味づけられている。
1994年7月をもう少し振り返ろう。
当時、司馬遼太郎が週刊朝日で「街道をゆく」を連載中で、青森県内をめぐる「北のまほろば」を執筆中だった。今から思えば氏の晩年にさしかかっており、「街道をゆく」はその最終章に入っていた(この後、「三浦半島記」があり、「濃尾参集記」が未完で「街道をゆく」は終わる)。
司馬は、この旅をはじめるにあたって、青森県を「北のまほろば」と表現した。日本武尊の「ヤマトは国のまほろば」に対する、「北のまほろば」というわけである。
それが物の見事に、まさかと思うような形で、現実に遺跡として現れた。
司馬も、「北のまほろば」がまさかの予言的中となったことに自ら驚いたのだろう。「白昼夢のような話である」と、この報道に接した時のことを記している。
それから四半世紀が過ぎ、縄文の「まほろば」は世界遺産となる。
弥生時代の中心は北九州、ヤマト国家の中心は奈良盆地、それ以後も京・大坂、江戸・東京と、つねに列島の西側に文化の重心は引っ張られてきた。だが、それに先立つ縄文時代は、東北に、それも北東北・南北海道という、列島北端の地にあった。そこが文化の中心だったのである。(『津軽学9号 北のまほろば 津軽再発見』参照)。
その列島北端の文化が世界遺産に登録される。
それ以前のずっと長い間、この列島の文化はもっと別の形、別の分布を示していた。
世界遺産登録を機に、多くの人にこの遺跡群をまわって、その固まってしまった常識をきちんと崩してもらいたいと思う。縄文を通して、全く異なる日本が見えてくるはずだから。
もっともそれだけなら、この列島に暮らす人々にとっての意味というにすぎない。
世界遺産登録を機に、もう一つさらに検討され、強調されていくべきことは、
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