「この20年で変わってきたうつ病」の真実と、訳語の選び方
2021年07月05日
全仏オープン1回戦を勝ち、記者会見を拒否し、以後の試合を棄権した大坂なおみ選手のツイート(英文)は世界に大きな衝撃を与えた。それには、こう書かれていた。
I have suffered long bouts of depression since the US Open in 2018
「2018年の全米オープン(で優勝して)以後、長い間の“depression”に悩んでいた」と告白したのである。
この“depression”(デプレッション)という表現を、国内メディアはいくつかの異なる訳語で紹介した。うつ病、うつ、うつ状態、が主であった。この3種類は、意味や受けるイメージが相当に違う。「うつ病」といえば、精神科など医療機関で治療を要する状態と受け取れるし、「うつ」や「うつ状態」はそれよりはもっと軽いもの、生活の中で時には誰もが経験する悩みやプレッシャーという程度とも考えられる。訳語の違いは、大坂選手への印象を大きく変えるものになった。
例えば、朝日新聞は「うつ病告白」と報じ、2021年6月2日付の「天声人語」でもうつ病を前提に「病気であれば(会見拒否は)仕方ない」と書いた。同月25日付のオピニオン面でも、大坂選手のツイッターの抜粋を紹介するところで「長いうつ病に苦しんでいて」と書き表していて、訳語は変わっていない。「うつ病」と翻訳すれば、「治療と療養が必要な病気」というイメージを強く与えることになる。
こうしたメディアの翻訳が正しかったかどうか、大きな疑問がある。報道機関がどの訳語を選ぶかで、世の中の人々は、大坂選手を誤ったイメージで見てしまいかねない。
筆者は精神科医だが、実際に診察していない以上、大坂選手の苦しみがどのようなものなのかはわからない。ただ、彼女のツイートから推察する限り、「治療と療養が必要な病気」であったとは考えにくい。そこで「うつ病」という訳語に疑問を持つわけだが、「うつ病」という言葉が意味する内容が昨今は変わってきているのも事実である。その背景を解説しつつ、デプレッションという言葉で大坂選手が表現したかったことは何かを考えてみたい。
デプレッションとは、ものごとが押し下げられた状態を表し、もともと「精神の病」の意味はなかったと思われる。オックスフォード大学出版局による辞書サイト「Lexico」によると、「ひどい意気消沈と失意の感情」という意味が冒頭にあり、その派生的意味として、「ひどい意気消沈と失意、通常は自分に価値がないと責める感情を特徴とする精神障害(a mental condition)」と記載されている。その後には、「経済的不況」、「低気圧」、「低地」などの意味が続く(邦訳筆者)。
他のいくつかの英英辞典でも、基本的に変わらない。つまり、デプレッションには、日常の気分の強い落ち込みや悲しみと、病気としてのうつ病の両方の意味があることがわかる。朝日新聞などいくつかのメディアは、後者の意味を採用して訳したのである。
では、大坂選手はどちらの意味でデプレッションという言葉を使ったのか。
明確なことはわからない。しかし、
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