「二十歳のころ」を生み出した伝説のゼミはいかにして生まれたか
2021年08月14日
立花隆さんの訃報が公になったとき、駒場にある東京大学教養学部で実施された「立花ゼミ」がずいぶんと取り上げられた。訃報が発表されたのが、ゼミ生たちが自主的に運営してきた「立花隆公式サイト」だったので、それも当然のことかと思う。私は、立花ゼミが誕生する際の裏方を務めた者である。当時の状況を振り返り、希代のジャーナリストの追悼文としたい。
東大生は入学後、最初の2年間は全員が教養学部前期課程で学ぶ。その授業は専門化した学問分野の各論ばかりで、分野間をまたぐものはほとんど無い。
西欧では19世紀前半まで科学は自然哲学一枠で論ぜられ、学問分野の専門化はその後に起きた。そして、日本が輸入した西欧の科学は既に専門分野に分かれた後だった。ちなみに生物学という名称は1802年に提唱された。つまり、日本は、この学問(特に自然科学)の底流にある共通認識(自然哲学としての総合的な世界認識)を飛び越えて、各専門分野から学んだ。その結果、日本のアカデミズムはそれぞれのタコツボの群れとなり、学者はタコツボに安住し、領域侵犯しない。
明治政府が招いたお雇い外国人ベルツは「種をまき、木を育てることをせず、実を採ることしか知らない者は、成功の道を歩むことはできない」(『ベルツの日記』岩波文庫)と日本の学問を批判した。ところが、そうした批判などどこ吹く風で、東大が1、2年生の教育でタコツボの再生産に勤しむ。これではまずいのではないか? 誰かそのような学問と社会を俯瞰するような授業「世界概論」ができる人材はいないか? こう考えた私が思いついたのが、立花隆さんだった。
指定された日時に事務所のある「猫ビル」を訪れると、佐々木さんが現れ、上の階に案内された。そこには書物の山の中で夢中で何かを執筆中の立花さんがいた。彼は手元の目覚まし時計を見ながら筆を止め、私との会話を始めた。私が東大で授業を担当してほしいと言うと、「僕は学生たちを相手にする気はない」、「自分は若者が好きじゃない」、「取材や原稿書きに追われているので授業をする時間がない」というネガティブな答えが返ってきた。いかにも頭の中の執筆エンジンがかかっているので、早く会話を切り上げたいという様子だった。
私は
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