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東大立花ゼミの誕生秘話

「二十歳のころ」を生み出した伝説のゼミはいかにして生まれたか

松田良一 東京理科大学教授

 立花隆さんの訃報が公になったとき、駒場にある東京大学教養学部で実施された「立花ゼミ」がずいぶんと取り上げられた。訃報が発表されたのが、ゼミ生たちが自主的に運営してきた「立花隆公式サイト」だったので、それも当然のことかと思う。私は、立花ゼミが誕生する際の裏方を務めた者である。当時の状況を振り返り、希代のジャーナリストの追悼文としたい。

なぜ、立花さんに授業をお願いしたのか

 東大生は入学後、最初の2年間は全員が教養学部前期課程で学ぶ。その授業は専門化した学問分野の各論ばかりで、分野間をまたぐものはほとんど無い。

 西欧では19世紀前半まで科学は自然哲学一枠で論ぜられ、学問分野の専門化はその後に起きた。そして、日本が輸入した西欧の科学は既に専門分野に分かれた後だった。ちなみに生物学という名称は1802年に提唱された。つまり、日本は、この学問(特に自然科学)の底流にある共通認識(自然哲学としての総合的な世界認識)を飛び越えて、各専門分野から学んだ。その結果、日本のアカデミズムはそれぞれのタコツボの群れとなり、学者はタコツボに安住し、領域侵犯しない。

 明治政府が招いたお雇い外国人ベルツは「種をまき、木を育てることをせず、実を採ることしか知らない者は、成功の道を歩むことはできない」(『ベルツの日記』岩波文庫)と日本の学問を批判した。ところが、そうした批判などどこ吹く風で、東大が1、2年生の教育でタコツボの再生産に勤しむ。これではまずいのではないか? 誰かそのような学問と社会を俯瞰するような授業「世界概論」ができる人材はいないか? こう考えた私が思いついたのが、立花隆さんだった。

初めはけんもほろろに断られた

拡大「猫ビル」の前で写真に収まる立花隆さん=2016年3月、東京都文京区
 1994年、私は立花さんに「東大教養学部で学生たちに文理を超えて、社会と学問を語り、世界を俯瞰する(ような)授業を担当していただけないか」と手紙を書いた。しばらくして秘書の佐々木千賀子さんから電話をもらい、一度、立花さんに会うことになった。

 指定された日時に事務所のある「猫ビル」を訪れると、佐々木さんが現れ、上の階に案内された。そこには書物の山の中で夢中で何かを執筆中の立花さんがいた。彼は手元の目覚まし時計を見ながら筆を止め、私との会話を始めた。私が東大で授業を担当してほしいと言うと、「僕は学生たちを相手にする気はない」、「自分は若者が好きじゃない」、「取材や原稿書きに追われているので授業をする時間がない」というネガティブな答えが返ってきた。いかにも頭の中の執筆エンジンがかかっているので、早く会話を切り上げたいという様子だった。

 私は

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筆者

松田良一

松田良一(まつだ・りょういち) 東京理科大学教授

1952年生まれ。帝京大学医学部衛生学教室教務職員として勤務しながら東京都立大学理学部(夜間部)を卒業。千葉大学大学院修士課程修了、東京都立大学大学院博士課程中退。理学博士(1982年)。東京都立大学助手、米国W. Alton Jones細胞科学センター主任研究員、東京大学教養学部教授などを経て現職。共著・編著に『英語論文セミナー 現代の発生生物学』『世界の科学教育』など。国際生物学オリンピック運営委員、同日本委員会運営副委員長を務め、2018年から国際生物学オリンピック議長。東大名誉教授。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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