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100年前のアナキストとの出会いと、私が会社を辞めたワケ 上

村山由佳著『風よあらしよ』に描かれた伊藤野枝の鮮烈な生涯

宮﨑紗矢香 人間活動家

 やりたいことしかやりたくない。ああしろ、こうしろと、束縛されるのは、たまらない。結局は、これが本音だったと聞けば、周囲はどんな反応をするだろうか?

 「なんてわがままで、迷惑なやつなんだ」

 そんな批判が飛んできたら、私は傷つきながらも、光栄に思うかもしれない。

 愚かしくも真っすぐに、我を忘れずに生きることは、アナキズムの精神に直結する。自分の生を誰にも明け渡さない。私は私を生きる。究極の自由意思を尊重する思想は、自我を貫く「わがまま」と表裏一体である。

 100年前、女性の自立や連帯を掲げて闘った一人の女性も、誰に何と言われようと、世間から後ろ指をさされようと、最後までその信念を貫いた。

 大正時代のアナキストであり、婦人解放運動家の伊藤野枝である。

1923年7月、東京駅に着いた無政府主義者の大杉栄さんと伊藤野枝さん(左)、抱かれているのは娘の魔子さん。大杉さんは関東大震災直後の23年9月、伊藤さんらとともに甘粕正彦・憲兵大尉に殺された1923年7月、東京駅に着いた無政府主義者の大杉栄さんと伊藤野枝さん(左)、抱かれているのは娘の魔子さん。大杉さんは関東大震災直後の23年9月、伊藤さんらとともに甘粕正彦・憲兵大尉に殺された

 村山由佳著『風よあらしよ』(集英社)から、その鮮烈な生涯に触れた私は、いかなる社会道徳も、組織も制度もイデオロギーも、個人を縛るものであってはいけないと強く思った。

 波風立てずに生きることができない人間の、その人生。読後、図らずも会社を辞めてしまった自分に、野枝の人生が投影される。

 福岡県は今宿村の貧しい家庭に生まれた野枝は、幼少期、教師から理不尽な仕打ちを受け、「一生とり返すことのできない屈辱」を味わう。

 大人は、汚い。自分を守るばかりか、わざわざ他人を貶めるためにも嘘をつく。女はこうあるべき、子どもはこうあるべき、そうやって自分たちの理屈で決めつけては弱い者を力で従わせようとする。教師の権力をかさに着て、生徒に怒鳴ったり、刃向かうなとおどしたり、そのくせ都合が悪くなると責任を押しつけて逃げようとするのだ。(『風よあらしよ』)

 すがすがしいほどのまっすぐな怒りに、目が覚めた。こういう類の感情は、世間から何かと負の目線を向けられ、たちまち一掃されやすいものだが、野枝は全く引き下がらない。

 この悔しさは忘れない、とノエは思った。絶対にあいつらを許さない。
 腹に溜めておく石炭がまた増えた。(『風よあらしよ』)

 「君の思うようにはいかない」

 2年前、就活先の面接担当者にそう揶揄(やゆ)され、選考にことごとく落ちた当時の自分も、黒々とした石炭を抱えていた。

 環境問題は、二の次で利益最優先が当たり前。世の中は甘くない。そういう理屈で若者の口を塞ぎながら、スーツの胸には「誰一人取り残さない」SDGsバッジを掲げている。その矛盾が許せなかった。

 寝たら忘れる、なんてことはない。味わった悔しさを、この腹にちゃんとためておいて、いつか思い切り燃やしてみせる。

 そう誓う傍らで、同じくたまりゆく石炭を、学校ストライキという形で大人にぶつけている少女がいた。

 文字通り、二酸化炭素排出量の多い石炭火力に投資する権力者を鋭く批判し、後に、世界を動かす環境活動家となる、グレタ・トゥンベリだ。

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