自由で自立した個が集まってこそ、助け合う社会は可能になる
2021年09月14日
しかし、世間というものはいつだって、規律から外れる者に容赦ない。
新卒で入社した会社を1年半にも満たず退職した直後、講演をした先の大学生から、こんな感想が送られてきた。
生き方自体はとても素晴らしくてかっこいいと思いますが、環境問題以前に会社を辞めたり、デモを起こしたりという行動に私は疑問を感じます。大きく見れば未来のための勇気ある行動ですが、その時点で見れば、誰かに迷惑をかけている、そんな活動ではないのでしょうか。誰にも迷惑をかけないで、行動を起こすことは不可能なのでしょうか。その部分が疑問でした。
こんなにはっきりと、言葉を選ばずに、一連の言動を「迷惑」だと非難されたことは初めてだったゆえ、率直に言って面食らった。
一方で、この大学生が指摘するところの感覚は、私にも内在していた。
辞職を申し出るとき、「これ以上、会社のみなさんにご迷惑をおかけしたくない」と口にしたことは事実である。周りがどうであれ、自分の感覚に基づいて行動することを、どこかで後ろめたく思う自分がいた。
デモなんて言葉も縁遠いものだったはずで、Fridays For Future Tokyo(FFFでは「気候マーチ」と呼んでいるが)に入るまでは、どちらかといえば街頭で何かを盛んに訴えている人を見ては、うっとうしいとすら思う感情を抱いていた。
社会運動に身を投じることや、それ以前に独自の意見を主張することを「わがまま」「迷惑」と断じる風潮は、日本において、なぜこれほどまでに根強いのだろうか?
17歳で雑誌『青鞜』の編集に携わっていた野枝は、恋愛をして好きな相手と結ばれたいなんて不道徳だ、わがままだと一蹴する世間に向けて、こう反論する。
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