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「ツナミプランツ」を描き続けるアーティスト

海岸の植物たちは東日本大震災による津波の影響を静かに伝えてきた

米山正寛 ナチュラリスト

 野山や海岸に立って頭の中に絵の構図を浮かべる。そして収めようとする植物の姿をスケッチしていく。自宅に帰ると、それをもとに構成を整えて、下絵をトレーシングペーパーに描いていく。そして、その裏に鉛筆の粉を薄くまぶしてから画用紙の上でなぞる。写し出された線を、もう一度勢いのある線で描き直す。このように下絵から3回描いて、ようやく描こうとする作品の輪郭ができあがる。

拡大「ツナミプランツ」の作品展を開いた倉科光子さん
 彩色に使うのは透明水彩絵の具だ。花や葉の色は写真に撮っても、モニター画面ではうまく示されないことが多い。そこで現場でスケッチする際、同じ色を絵の具を混ぜ合わせて作っておく。その色を見ながら、野外の現場で目にした色をもう一度再現していく。東京都多摩市に暮らすアーティストの倉科光子さん(60)は、いつもこんなスタイルで植物の絵を描いてきたという。

海岸と内陸の植物が勢力争い

 横幅1mにもなる大きな作品は、2011年の東日本大震災から4年後の初夏、岩手県宮古市の松月海岸で見た植物たちだ。海浜植物のハマエンドウが紫色の花を咲かせる周りに、普通ならここには見られないだろうシロツメクサ(白クローバー)やメマツヨイグサの姿があった。春に早々と咲いたタンポポの枯れた花茎も残っていた。

 2011年のあの日、大津波はこの海岸を襲い、その引き波は内陸側の土を海辺近くに運んできた。その中にこれらの植物の種子が含まれていたに違いない。思いがけない場所に育った内陸の植物たちを、もともと海岸に生えていたハマエンドウが勢力を盛り返して覆い隠そうとしている。倉科さんは津波後の数年間にここで起こった植物たちの勢力争いを読み取りながら、1枚の絵として表していった。下絵だけで1年半、足かけ7年あまりをかけて今年、ようやく完成させた。

拡大39°42′03″N 141°58′15″E(ハマエンドウ)。現場の緯度経度がタイトルになった作品が多い=作品の画像はすべて倉科光子さん提供
 「以前の海岸を知る人には『あれっ、違うぞ』という感じでしょう。このようにいろんな植物が生えている所が、きっとあると思っていたので、訪れたときにピンと来ました。描きたい気持ちが強くなって、紙いっぱいに描いたんです」

描く思いに駆られた被災地の変化

 青森県三戸町で育った子どものころから野山の植物を描くのが好きだった。植物の絵が描けることに魅力を感じて、20代になると東京手描友禅の仕事を始めた。結婚を機に3年ほどで友禅の世界を離れたが、そこで使っていた染料と透明水彩絵の具の色の感じが似ているので、混色のバランスは当時の経験を今も生かしているそうだ。

 植物の絵を描き続けるためにもう少し植物のことを学ぼうと、東京農業大学の科目履修生となったのが東日本大震災の発生した2011年。講義で阪神・淡路大震災の後、被災地にスミレがたくさん増えたという話を聞いた。「被災者の暮らしに植物が寄り添っているように感じました」。そして東日本大震災の被災地でも植物の変化が起こるのなら、自分の手で描いてみたいという思いに駆られた。

 やがて、海岸沿いにある津波や地盤沈下の影響を受けた場所で珍しい植物が育っている、という報道がなされるようになった。でも、

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筆者

米山正寛

米山正寛(よねやま・まさひろ) ナチュラリスト

自然史科学や農林水産技術などへ関心を寄せるナチュラリスト(修行中)。朝日新聞社で科学記者として取材と執筆に当たったほか、「科学朝日」や「サイアス」の編集部員、公益財団法人森林文化協会「グリーン・パワー」編集長などを務めて2022年春に退社。東北地方に生活の拠点を構えながら、自然との語らいを続けていく。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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