第2次大戦後、電子計算機で数値気象学に挑み始めた米国へ。27歳で送り出され
2021年12月17日
アル・ゴアと「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」が受賞した2007年の平和賞とは違って、真正面の科学評価である。真鍋の業績のみならず、それを必要とした気象学・気候学での問題意識や数値シミュレーションという手法が、自然認識における基礎的な役割を担うようになってきたことを科学世界が強く認識したということであり、真鍋の仕事の延長線上にこれを惑星大気に拡張するような仕事をしてきた筆者らにはひとしお喜ばしく感じられるところであった。授賞式に際し、真鍋淑郎という研究者が歩んできた道を振り返りつつ、その授賞理由を紐解(ひもと)いてみることにしたい。選考にあたったスウェーデン王立科学アカデミーノーベル委員会はなかなか良いセンスをしている、と僭越(せんえつ)ながら思うのである。
真鍋は、旧制の初等中等教育を受け、家業の医学の道を歩むべく旧制大阪市立医科大学(現在の大阪市立大医学部)に入学したが実験や実習でどうにもこれは不向きだと悟り(と聞いている)、1949年改めて東京大学に入学、新制大学1期生となった。旧制高校3年間のカリキュラムを2年間に詰め込まれた教養課程を修了した後、理学部物理学科地球物理学課程に進学(新制発足後一時期、地球物理学科=現在の地球惑星物理学科=は物理学科のコース扱いとなっていた)、これまた同じく旧制大学の3年間を2年に圧縮した専門課程を経て1953年春に卒業した。
筆者の手元にはたまたま「地球物理学科新制第一回卒業生一同 1953年3月」の卒業記念写真冊子が伝承されている。集合写真は、東京大学弥生キャンパスにあった木造の地球物理学教室棟で撮影されたものである。真鍋は右から3人目、気象学の著名人としては栗原宜夫(後述)と駒林誠の姿もある(次回詳述)。
一方、米国では、第2次大戦の終わりとともに、電子計算機の登場にともなう新たな時代が幕をあけつつあった。紙と鉛筆だけでは解けない非線形な問題に電子計算機で切り込んでいくことができる、といち早く着目したのはジョン・フォン・ノイマンである。彼がプリンストンの高等研究所で立ち上げた電子計算機プロジェクトの対象として天気予報を選んだことが、気象学・気候学に革命をもたらすことになったと言っても過言ではないだろう。
しかし、フォン・ノイマンが天気予報への挑戦を選んだことは唐突なことではなく、電子計算機時代以前の1920年ごろに、微分方程式を離散化して解くことができ、従って、流体方程式で記述されるはずの数値天気予報は可能であると主張した数学者・気象学者のルイス・フライ・リチャードソンがいた。彼は、本当に実証実験(計算尺?)したところがすごいのだが、6時間の予報に6週間かけて、100hPa以上の気圧変化が起こる、というありえない結果を得て失敗していた。これは、数値計算の「勘どころ」がわかっていなかったからで、闇雲(やみくも)に微分方程式を離散化して計算してもダメだという例となり、逆にこの失敗はなぜ失敗したのかという大きな問題として認識され、フォン・ノイマンに至ったわけである。
数値天気予報への挑戦に呼応して特に東海岸の主要大学に、物理学や応用数学の研究者が大戦で疲弊した欧州・東アジアからも集められ、現象論的に進化していた当時の気象学・気候学を、数値天気予報の実現という共通目標の下、物理学として再構築することが進められた。計算の勘所、何を計算すればよいのかきちんと考え直そうというわけである。流体力学の分野では、大気と海洋の運動が、回転と密度成層が働く流体の挙動として統一して理解できることが見いだされ、地球流体力学(GFD=Geophysical Fluid Dynamics)という枠組みが整理された。フォン・ノイマンに始まるこのような動きの30年ほどの研究集積の結果である。
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