救済を求めて司法に訴えることもできない日本は「環境後進国」である
2022年05月02日
私は言語の専門家ではないが、人間社会における最重要の意思疎通の手段は間違いなく言語である。
私はまた法律の専門家ではないが、沖縄で暮らす私にとって身近で関心あるテーマについての司法の判断には、私の日本語についての常識に反するものが少なくない。
私には、司法が日本に暮らす人々の重要な意思疎通の手段である日本語の質を劣化させているように思えてならない。
正当と思われる沖縄の人々の主張を司法が認めないことも問題だが、問題はそれに止まらない。司法が、日本語の質を著しく低下させていることを、日本社会に暮らす人々は問題だと考えていないのだろうか。私は、司法判断そのものと、そこでなされる日本語解釈は、表裏一体のものとして双方に問題があると考えている。
具体的に言おう。本年3月17日の福岡高裁那覇支部の国会不召集訴訟判決は、日本語の解釈として極めて納得しがたい。2017年に野党が要求した臨時国会の召集を当時の安倍内閣が3カ月以上放置したのは憲法53条違反だとして沖縄県選出の国会議員ら4人が国に損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で、福岡高裁は、請求を退けた一審那覇地裁判決を支持し控訴を棄却した。
野党が臨時国会の召集を求めたのは、森友学園や加計学園を巡る問題が噴出した時期である。召集要求は審議を通した問題の真相解明が目的だった。安倍政権は、やっと臨時国会召集を決めたと思ったら、冒頭で解散してしまった。
私も含めた普通人には、原告らの請求をなぜ棄却したのかという判決の細かな法的説明は理解不能で、憲法53条の日本語をどう解釈すれば、3カ月以上も放置しておいて安倍内閣がその責を問われないのかという疑問だけが残る。
判決は、ほとんどの日本語話者の共通理解である「しなければならない」という日本語の常識的な意味を間違いなく破壊している。
司法が用いる日本語解釈への違和感については既視感がある。それは辺野古新基地建設に先だって沖縄防衛局が実施した環境アセスメントが市民の意見陳述権を奪ったとして沖縄の市民が訴えた、いわゆる辺野古環境アセスメント訴訟の判決である。
日本の環境アセスメント制度では「方法書」「準備書」「評価書」の3種類の図書が作成される。「方法書」とはアセスの設計図であり、調査、予測、評価の方法が書いてある。
つまり、
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