一律の「さん呼び」について考える 小学校で広がる「あだ名」禁止
大人が決めることで失う、相手の反応で行動を変える機会の重要性
三田地真実 行動評論家/言語聴覚士

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「小学校で『あだ名』『呼び捨て』は禁止、小学校で『さん付け』指導が広がる」(5月28日、読売新聞オンライン)というニュースがフェイスブックで話題になっていることを知った。
記事の中では、「あだ名は身体的特徴や失敗行動など相手を 蔑視(べっし)したものが多い。呼び方だけでいじめを根絶できるわけではないが、抑止することにはつながる」という管理職のことばが紹介されていた。一方で、「さん付けは時代の流れであり、それを各校が採り入れることは理解できる。ただし、あだ名まで禁止すると円滑なコミュニケーションがとれないのでは」「昔は子供たちが愛称で呼び合った。その効果か、クラスはにぎやかだった」という声も紹介されている。
フェイスブック上でのレスポンスは、「ええー?!」と驚く声ばかりであった。
「あだ名を強要するのもいかんけど、呼び名をルールで決めるの?」というのがおおかたのトーンである。また、「表面的に『多様性』とか個性とか言っているけれど、何かと一律にしようとするね。一律の方が管理側は楽なのでしょう。一種の『ことなかれ主義』?」という本質に迫る意見もあった。
とにかく何でも「~さん」で呼ばせておけば、何かの問題が起きる確率を最小限にするという意味では、「ことなかれ主義」の表れと言われても仕方がないだろう。本稿では、このような方策には、「あだ名で呼ぶ行動がどのような効果を持つか」という「発話行動の機能」は「言われた相手が決めている」という重大な視点が完全に欠落していることを指摘したい。