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新型コロナと行動制限~公衆衛生倫理から考える(前編)

健康被害の増加か、社会経済的損失か パンデミックがもたらしたジレンマ

鈴木 基 国立感染症研究所感染症疫学センター長、疫学者

 新型コロナウイルス感染症(以下、新型コロナ)のパンデミックが始まって以来、世界各国はロックダウン(都市封鎖)を含む強力な行動制限策をとってきた。これは感染拡大による健康被害(重症者数、死亡者数、後遺症による健康寿命の短縮を含む)の増大を抑制するためであったが、一方で社会経済的損失を含む様々な負の影響を社会にもたらした。これはどちらを選択しても何かを失うというジレンマの状況である。2022年8月時点でこのジレンマが解消されたわけではないが、日本および世界各国は問題を直視しないまま、健康被害の発生を許容しながら対策の緩和に向かいつつあるように見える。

 こうした背景を踏まえ、本稿ではパンデミックの状況下で行動制限策を選択することが、倫理的に「正しい」のか、「正しくない」のか、について考える。これは同時に現在の倫理学的な考え方に基づく「正しさの基準」を考えることでもある。前編では、倫理学の一領域である「公衆衛生倫理」の代表的な考え方に基づいて「正しさの基準」を設定し、これに照らして行動制限策の正しさを検討する。

世界中でとられた行動制限策

拡大平成立石病院の前には毎日救急車の列。最も多い日には7台が並んだ=2022年8月5日午後5時33分、東京都葛飾区
 本稿の執筆時点(2022年8月)で、国内では第7波と呼ばれる新型コロナの流行拡大が続いている。厚生労働省のデータによると、8月19日、1日あたりの新規陽性者数は初めて26万人を超えた。受診者と入院患者の急増により医療機関では通常医療の継続が困難となるところが現れ、救急搬送が困難となる事例の数が増加している。

 このため医療・公衆衛生従事者を中心に、流行抑制を目的とした市民の行動制限を求める声が上がるが、岸田文雄内閣総理大臣は、7月29日、「一律の行動制限は行わない」と述べ、社会経済活動の回復に向けた取り組みを進めていく方針を示した。これに対し、政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長は、NHKの討論番組で「強い行動制限をとらないと決めるのであれば、それに代わってしっかりと一人ひとりが、感染対策を今まで以上に徹底することが今の段階では求められる」と述べている。

 ここでまず、新型コロナと行動制限について、振り返ってみたい。

 新型コロナのパンデミックは、世界中の人々の生活とものの考え方に大きな変化をもたらした。その原因の一つは感染拡大によって生ずる甚大な健康被害であり、もう一つがこれらを抑制するためにとられてきた「公衆衛生的・社会的対策(public health and social measures)」である。WHOの定義によると、公衆衛生的・社会的対策とはワクチンや治療薬などの薬物的介入以外の社会的な対策のことであり、これにはマスクの装着、消毒、換気などの日常の感染対策から、社会的距離、渡航制限、都市封鎖、集会の制限、外出制限といった個人の社会行動に制限を課す対策が含まれる。本稿では、このうち感染者であるか否かにかかわらず市民の行動に制限を課す対策のことを「行動制限策」と呼ぶ。

拡大封鎖されて間もないころの中国・武漢市中心部=2020年1月下旬、市民提供

 この行動制限策は、パンデミックが始まって以来、世界中で広範かつ長期にわたって講じられてきた。特にパンデミックが始まった当初はワクチンと治療薬がなく、またウイルスの特性も不透明であったことから、各国で行動制限策がとられた。2020年1月29日に中国・武漢市で大規模なロックダウンが行われ、続いてヨーロッパ、アメリカ諸国を含めて次々と同様の措置がとられた。日本もまた同年4月7日に、新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく最初の緊急事態宣言が発出されている。

 Oxford COVID-19 Government Response Trackerのデータによると、同年4月30日時点で住民に対して何らかの行動制限を要請していた国は184カ国であった。つまり、この時点で地球上の人類の大半が行動制限下にあったということになる。さらにこの状況は、ワクチンと治療薬が開発導入されて以降も長期間にわたって続いた。2022年初め以降の世界的な制限緩和の流れの中においても、5月30日時点で88カ国において行動制限が課されている。

拡大Oxford COVID-19 Government Response Trackerのデータを用いて筆者作成
参照:Oxford COVID-19 Government Response Tracker, Blavatnik School of Government, University of Oxford.

 グラフ注)行動制限の推奨および要請はそれぞれ以下のように定義した。「行動制限の推奨または要請」とは以下のいずれか1つを課していること:学校閉鎖=推奨以上、就業場所の閉鎖=推奨以上、イベントの中止=推奨以上、集会人数の制限=1000人未満、公共交通機関の運行停止=推奨以上、外出制限=推奨以上、国内移動の制限=推奨以上、出入国管理=入国時スクリーニング以上。「行動制限の要請」とは以下のいずれか1つを課していること:学校閉鎖=一部要請、就業場所の閉鎖=一部要請、イベントの中止=要請、集会人数の制限=100人未満、公共交通機関の運行停止=要請、外出制限=一部要請、国内移動の制限=要請、出入国管理=入国時隔離以上

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筆者

鈴木 基

鈴木 基(すずき・もとい) 国立感染症研究所感染症疫学センター長、疫学者

〈P〉 1972年生まれ。1996年、東北大学医学部卒業。国境なき医師団、長崎大学ベトナム拠点プロジェクト、長崎大学熱帯医学研究所准教授などを経て、2019年4月から現職。専門は感染症疫学、国際保健学。厚生労働省新型コロナウイルス感染症対策アドバイザリーボードのメンバーとして、流行分析と対策に関する提言を行っている。〈/P〉

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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