メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

新型コロナと行動制限:公衆衛生倫理から考える(中編)

パンデミック下における行動制限策の正しさとは

鈴木 基 国立感染症研究所感染症疫学センター長、疫学者

 中編では、パンデミックの一般的な状況下における行動制限策の正しさを検討する。検討するにあたり、まず、現在の倫理学で重要な役割を果たしている「効用」という概念を用いて、公衆衛生的介入の正しさの基準を改めて設定する。この正しさの基準は効用のバランス(均衡)を判定する基準と、分配を判定する基準からなる。具体的な判定基準として、前者については予防原則、マキシミン・ルール、費用便益を、後者については格差原理を取り上げる。このとき費用便益は「効率性のルール」として、格差原理を「公平性のルール」として再定義する。

5.「効用」とは何か

 現在の倫理学においては、「効用(utility)」という考え方が重要な役割を果たしている。この見解には異論もあるだろうが、少なくとも、それを完全に排除してしまっては多くの議論が成り立たないほどには影響力を有している。

 まずは「効用」とは何であるのかを見てみよう。

=shutterstock.com

 私たちは自分にとって好ましいものが得られたときに、快楽、喜び、満足といった感情を抱き、それが得られないときや失われたときに苦痛、悲しみ、不満といった感情を抱く。そして、好ましい感情をよいものとし、好ましくない感情を悪いものとしている。

 しかし、こうした個人的な感情の経験を他人と「共有」することは出来ない。目の前にいる人が喜んでいるのか、悲しんでいるのかは、究極的には本人以外には知り得ないのである。しかし、他人の経験などわからない、で片づけてしまっては社会生活が成り立たない。私たちは「共感」を通して、他人の感情を理解しようとするし、現にそうしている。

 そこで、こうして客観的に把握された個人的な感情を「効用」という言葉で言い表すことにする。そして個人的な快楽、喜び、満足の経験(あるいは幸せを感じること)を「効用を得ること」と言い換え、苦痛、悲しみ、不満の経験(あるいは不幸せを感じること)を「効用を失うこと」と言い換える。こうすると、個人的な経験を、客観的にそこにあるものであるかのように取り扱うことが出来るようになる。

 もちろん効用それ自体を、目にしたり、手に触れたりすることはできない。それでも、あたかも質や量を持つもののようにみなし、分類したり、比較したり、数値に置き換えたりするのである。このとき、様々な個人的な感情の経験の違いは、効用の質的、量的な違いとして解釈されることになる。

 このような置き換えは、実感とはかけ離れている。例えば食欲が満たされたことによる効用と、ジョギングでよい汗をかいたことで得られる効用とを比較して、「どちらが好ましいか?」「どちらがより満足か?」と議論することには、往々にしてそうしたことが日常の話題になるとしても、本質的に意義があるとは思われない。同様に、試験に落ちたことによる効用の減少を、カラオケで歌うことで得られる効用で補填(ほてん)することはできないだろう(多少の気晴らしになることは事実だが)。

 このように、効用はあくまでもバーチャル(仮想的)なものであって、個人の経験を直接的に反映するものではない。

6.倫理学で効用が使われる理由

その1:扱いやすい

 それでも倫理学で効用は便利な考え方として使われる。理由は2つある。1つは、扱いやすいからである。特に数値に置き換えることで、足したり引いたりしたり、大小を比較したりすることができることは利点である。

 効用を数値に置き換えるやり方はいくつかある。例えばアンケートで「今、あなたは幸福か?」と質問し、100点満点で答えてもらう。このとき、40点と答えたものよりも80点と答えたもののほうがより満足しており、効用の水準が高いと言うことができる。ただし、単に「幸福か?」と聞いても、この言葉が自身の経験の何を指しているのかについての理解は人によって異なるだろうから、実際にはいくつかの手法を組み合わせて総合的に評価する必要がある。

 あるいは、効用の原因となるものの量で測る方法もある。例えばチョコレートそのものは物質だから効用ではないが、それを食べることで空腹が満たされ効用が得られる。そこで1個のチョコレートを食べるよりも2個のチョコレートを食べるほうが、より多くの効用をもたらすと解釈できる。ただし、これも上記のアンケートと同様、必ずしも「本当の効用」を表しているとは限らない。チョコレートが嫌いな人や、すでに満腹の人にとっては、チョコレートをより多く食べることで不快になり、効用を減らすことになるかもしれない。したがって、これもいくつかの方法を組み合わせて総合的に評価する必要がある。

=shutterstock.com

 このように、効用は個人的な感情の程度、あるいは、効用をもたらす原因の量に注目し、手法を工夫して測定すれば数値に置き換えることが出来る。個人の感情を他人が直接的に変えることはできないが、効用の原因となるものは増やしたり減らしたりすることが出来る可能性があることから、社会を運営する観点からは後者の方がより有用かもしれない。

 とはいえ、いずれにせよ効用はバーチャルなものである。様々な工夫を凝らして測定したところで、その数値はどこまでも代替でしかない。このため、効用を用いた倫理学的な議論は「Aの効用はBより大きい」「効用の水準がわずかに低下する」というように、あたかも数値を扱っているように進められるが、概して実際の数値計算は行わず、常識的な評価に基づいて概念的に進められる。本稿の議論もまたそのような性質のものである。

その2:「正しさ」の指標として使える

 倫理学で効用が便利な考え方として使われるもう一つの理由は、それが「正しさ」を測る指標として用いることができるからである。「正しい」とは、誰もが「その達成が妨げられてはならない」と思うもの(意図、判断、行為)であり、「正しくない」とは、誰もが「その達成が妨げられるべきだ」と思うものである。

 「正しい/正しくない」は個人的な感情ではなく社会的な規則に関わるものである。そこには何かしらの義務や強制の感情を伴い[1]、自由の制約に関する判断が関係する。

 また、「効用を得ること」が社会にとって「正しい」ものであり、「効用を失うこと」が「正しくない」ものである[2]。なぜ効用を得ることが正しいのか?それは、効用が個人的な感情に基づきながらも、誰にでも当てはまる客観的な指標である(少なくともそう想定されている)ことに関わる。誰もが「自分を含む誰かが効用を得る(幸せになる)こと」は妨げられてはならないと考え、「自分を含む誰かが効用を失う(不幸になる)こと」は妨げられるべきだと考える。この現実社会の事実が、効用を得ることの正しさの根拠となる。

 実際に、「効用を得ることは正しい/効用を失うことは正しくない」という考え方は、私たちの社会に浸透している。例えば「努力すれば報われる社会にしなくてはならない」、「所得格差は是正されるべきだ」と言うときに、私たちは自然とこうした考え方をとっている。

 もっとも、私たちが一般に「効用を得ることが正しい/効用を失うことは正しくない」と考える傾向にあるからといって、「正しい/正しくない」という言葉には自由を制約する意味が含まれているのを理由に、本当に自由を制約してよいのかどうかについては疑問があるだろう。効用については、それが個人の幸福を表す指標として適切かどうか、自由を制約する理由として使うことが妥当かどうかについて批判がある。これについては後編で触れよう。

=shutterstock.com

 参考までに、この効用を使って道徳や法を根拠づけようとしたのが18世紀から19世 紀にかけての英国の思想家ジェレミー・ベンサムである。当時の英国は産業革命と都市化の最中であり、市民社会が成立する過程にあった。自立した市民による社会運営が始まりつつあったという時代背景は、社会全体の幸福を測る方法が求められたことと無関係ではないだろう。

 またこの時期の英国では、急速な都市化に伴って衛生問題と労働者の健康問題が発生し、これを改善することを目的として公衆衛生に関する法律と行政の仕組みが確立されている。この英国の公衆衛生体制の確立に大きな役割を果たしたエドウィン・チャドウィックが、若い頃にベンサムの秘書であったというエピソードは象徴的である。近代の公衆衛生は効用という考え方とともに始まったと言っても過言ではない。

 なお、同じ頃に確立された経済学も効用を基本的な概念としているが、その考え方はここまで説明してきたものとは異なる。本稿の議論はあくまでも公衆衛生の倫理であり、経済学とは直接的に関係しないものと考えていただきたい。

7.健康は効用か?

 さて、本稿の関心は公衆衛生であり「健康」にある。ここで私たちが考えなくてはならないのは、果たして健康は効用なのか、ということである。

 健康という言葉は実に様々な意味を持っている。例えば臨床医学における健康は、診察や検査の結果に異常がなく、生物学的身体に病気のサインが見つからない状態のことである。この意味での健康は、医学的に客観的に評価されたものであって、効用とは言えない。

 これに対してWHO憲章は、「健康とは、肉体的、精神的、社会的に満たされた良好な状態のことであり、単に疾病または虚弱の状態でないことではない」と定義している。「満たされた良好な状態」であるなら、本人にとって好ましい感情であり、効用である。一方で、WHOの健康づくりのためのオタワ憲章では、「健康は生きる目的ではなく毎日の生活の資源である」とされている。これは健康を効用そのものではなく「効用を生み出すもの」であるとみなしているように思われる。

 こうしてみると健康は、それ自体が効用(満足や幸せの感覚)であるのか、効用を生み出すもの(満足や幸せの原因)であるのか、あるいは効用とは別のものであるのかがはっきりしない。むしろ、いずれの特性をも兼ね備えているように思われる。

 実際、公衆衛生が健康を増進するというとき、乳幼児死亡率の低下や平均寿命の延長のように、「効用を生み出すもの」として把握されることもあれば、生活の質(クオリティー・オブ・ライフ)やストレス指標の改善のように、「効用そのもの」として把握されることもある。また質調整生存年のように、生活の質と生存年数を掛け合わせて両者を同時に把握しようとすることもある。

=shutterstock.com

 このように健康と効用の関係は単純ではない。しかし、健康を獲得することはよいことであり、社会がそれを増進することは正しいことである、という認識は私たちの社会の中で広く共有されている。その意味では、それが効用そのものなのか、効用の原因であるのか、あるいは何らかの働きで効用に関係するものであるのかに関わらず、現に「効用に置き換えることが出来るもの」として扱われていると言えるだろう。以降、健康を効用に置き換えることが出来ることを前提として議論を進めるが、健康と効用の関係については最後にもう一度議論したい。

8.正しさを判定する基準:バランスと分配

 それでは、ここで公衆衛生的介入の正しさを判定する「5つの正しさの基準」に戻ろう。これは前編で、現在の公衆衛生倫理の代表的な考え方として暫定的に設定したものであった。ここまでの議論を踏まえて、各基準における「利益」を「効用の獲得」と読み替える。

 改めて書くと以下のようになる。

 「公衆衛生的介入の5つの正しさの基準」
 基準1.その介入は有効であり他に代替手段がない
 基準2.その介入により社会全体が効用を獲得する
 基準3.その介入により対象となる者が効用を獲得する
 基準4.その介入により対象となる者以外の者が効用を獲得する
 基準5.その介入により健康に関する効用の不公平が是正される

 これらの基準を満たしているなら、その介入は正しい。しかし、「効用を得ることが正しい」のであれば、正しさを判定するにはその介入によって効用を獲得できることが示されればよく、このように複数の基準を設定する必要はないはずである。これらの基準はなぜ必要なのか。

 ここで次の2つのケースを考えてみる。

 A.その介入により、社会はある効用をわずかに獲得するが、その他の効用を大きく失う
 B.その介入により、ただ一人が効用を獲得し、その他の全員が効用を失う

 「効用を得ることが正しい」というのを字義どおりにとるなら、少なくとも効用が得られている以上は両者ともに正しいことになる。しかし、現実社会においてこれは受け入れられない。

 現実社会は、Aについては、介入によって「得られる効用」は「失われる効用」に見合ったものであり、最終的にはその収支がプラスになることを求めるはずである。またBについては、効用が社会の中でできるだけ同じように分配されることを求めるはずである。このように社会は介入の正しさを判断するときに、効用の「バランス(均衡)」を評価することと、効用の「分配」を評価することを求める。

=shutterstock.com

 もう一度「5つの正しさの基準」を見てみる。基準1-3は介入によって「得られる効用」が「失われる効用」を上回るかどうかを問題としており、効用のバランスの評価に相当する。また基準3-5は社会の中で誰が効用を獲得するかを問題としており、効用の分配の評価に相当すると言える。

 ただ、これらの基準は「得られる効用」と「失われる効用」の収支の結果だけを問題としており、両者の違いは区別していない。現実社会では「得られる効用」と「失われる効用」の質や意味は異なっており、例え収支を計算するときでも、この違いを考慮に入れる必要がある。

 従って、正しさの基準には「バランス/分配」と「得られる効用/失われる効用」という2つの軸があるのであり、「5つの正しさの基準」もこれに沿って再構成した方がよいだろう。

 改めて、本稿の目的は、新型コロナ対策としての行動制限策の正しさを検討することである。ここからは、現在の公衆衛生倫理の代表的な考え方である「5つの正しさの基準」の考え方を維持しつつ、この2つの軸に沿って公衆衛生的介入の正しさを判定する基準として、効用のバランスを判定する基準と、分配を判定する基準を改めて設定し、これらに照らして行動制限策を検討したい。ただし、前回と同様に、パンデミックの一般的な状況を想定し、特定の国の社会情勢や流行状況については考慮しない。また効用の概念的な見積もりに際しては、比較的短期間(数カ月から1年程度)に生ずるものを想定する。

9.効用のバランスを判定する基準

 まず効用のバランスを判定する基準から考えよう。これは、介入によって「得られる効用」と「失われる効用」をどのように考慮して正しさを判定するかということである。古典的には「できるだけ多くの効用を得ること」、あるいは「できるだけ失われる効用を小さくすること」が「正しさの基準」であると考えられてきた。それでは「得られる効用」と「失われる効用」を共に考慮しなくてはならない場合は

・・・ログインして読む
(残り:約7666文字/本文:約13985文字)