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新型コロナと行動制限:公衆衛生倫理から考える(後編)

「正しい/正しくない」「よい/悪い」の相互調整 自由で平等な社会の実現のために

鈴木 基 国立感染症研究所感染症疫学センター長、疫学者

 後編では、「正しい /正しくない」とは別の倫理的判断である「よい/悪い」について論ずる。まず、「よい/悪い」とは目的に照らした価値判断であって、そこには一定の一貫性があることを説明する。そして新型コロナウイルス感染症の流行拡大に伴う行動制限についての判断が、「正しい/正しくない」と「よい/悪い」の相互調整を通して行われることと、この相互調整が「自由で平等な社会」の実現という目的の共有を前提として成り立っていることを明らかにする。

11.「効用の暫定的な値」 新たな経験と情報で更新

 中編では、「効用」という考え方を使って公衆衛生的介入の正しさの基準を設定し、パンデミックの一般的な状況下で行動制限策をとることが正しいかどうかを検討した。その結果、行動制限策はパンデミックの初期では正しいと判定される可能性があったが、一定期間が経過した後については、正しいかどうかを判定することが出来なかった。

 これは、「パンデミック下で行動制限は正しいのか」という問いについて、「一般的な」答えは導き出せないことを意味している。なぜ一般的に答えられないのか? それは、一般的な状況を想定するだけでは、効用の値を見積もることが出来ないからである。

 そうだとすれば、次にやるべきことは、例えば「2020年12月時点の日本」のように国・地域と時期を特定し、具体的な感染状況や社会経済的状況を踏まえて検討することだろう。出来るだけ正確な効用の値が得られるなら、それを使って正しさの基準に照らして正しいかどうかを判定できるはずだ。

 実際に、パンデミック初期から、ロックダウンを含む強力な行動制限策に関する経済学的な費用便益分析については、世界中で数多く行われている。例えば、2020年前半に米国で行われたロックダウンの費用と便益については迅速評価が行われている[1-3]。

 一方で、便益を「統計的生命価値」と呼ばれる金銭的価値に換算する際の手法やその意味に関する議論、費用を国内総生産等の経済指標だけで評価することの妥当性に関する議論がある[3-5]。また、高所得国と中低所得国で同じ方法を使って評価することが適切であるのかについても、検討しなくてはならないとされている[6]。

 経済学的な検討以外の、公衆衛生倫理の観点からの検討はどうだろうか。本稿執筆時点では、各国・地域で行動制限策がもたらした各種健康指標や受療行動への影響に関する調査や分析は行われているものの、その公衆衛生的介入としての正しさについては、ほとんどと言っていいほど検討されていない。

=shutterstock.com

 これは国際的にみても公衆衛生倫理が浸透していないことが一因と考えられる。公衆衛生的介入の決定に際して、何らかの標準的な方法でその正しさを評価するようにしていくことは、今後の課題である。その際には、国や地域を越えた影響や、次世代への影響を考慮することも必要となるだろう。

 このように現時点ではパンデミックにおける行動制限策について、一般的な状況を想定するにせよ、国・地域を特定するにせよ、それが正しいかどうかについて統一的な見解のようなものはない。それは結局のところ公式な効用の見積もりがないということだが、一方で、私たちは公的機関や研究者が実際に測定しなければ、獲得したり失ったりする効用がどの程度であるか見当がつかない、などということはない。

 例えば「自分はこんなに頑張っているのに報われない、これは正当ではない」と思うとき、何も特別な方法で測定した効用の値に基づいて判断しているわけではないだろう。私たちは日常の経験やメディアなどで目にする情報を通して、漠然と効用の質や量を把握していて、それを他人との会話や議論を通して確認している。そしてこの「効用の暫定的な値」を、新たな経験や情報が得られるたびに修正し、更新している。

 つまり、誰かが測定しなくても、パンデミックが始まった当初から(あるいはそのずっと前から)現在に至るまで、私たちは自分なりに効用の暫定的な値をリアルタイムで把握して、これを心の中で更新し続けているのである。そして、多くの者はそれを使って公衆衛生的介入の正しさについても評価しているだろう。

 誰もが一度は「自分はこんなに頑張っているのに報われない、これは正当ではない」と思った経験があるように、効率性や公平性といった言葉など聞いたことがなくとも、「得られる効用」(幸せや充実感)は「失われる効用」(努力や投資)に見合ったものだろうか、効用が身の回りで不公平に分配されていないだろうかと考えることは、私たちにとって自然なことである。

 そうだとすれば、各国・地域でとられた行動制限策は、その社会を構成する人たちがその時点で把握した効用の値に基づいて「正しい」と判断した結果ではないだろうか?そして世界中で繰り広げられた論争と対立は、効用の暫定的な値の見積もりの齟齬(そご)を巡るものであった、ということではないだろうか?

 これは全くの間違いではないが、事態を正確に捉えていない。そこにある「正しい/正しくない」とは別の倫理的な判断のことを見落としているからである。その判断とは「よい」と「悪い」である。

12.「よい/悪い」とは 「正しい/正しくない」との違い

 「よい/悪い」は「正しい/正しくない」とは違う。なお、両者を区別することは、現在の倫理学では珍しいことではない。

 もう一度確認しておこう。「正しい」とは、誰もが「その達成が妨げられてはならないと思うもの(意図、判断、行為)」であり、「正しくない」とは、誰もが「その達成が妨げられるべきだと思うもの」だった。

 これに対して「よい」とは、「その対象が目的に照らして求められる(望ましい)性質を持っていること」であり、「悪い」とは、「その対象が目的に照らして求められる性質を持っていないこと」である[7]。

 例えば、いま私が手にしている時計が、「時刻を知る」という目的に照らして「正確な時刻を表示する」という性質を持っているなら「よい時計」である。「表示する時刻がいつもずれている」「文字盤が見にくい」という性質を持っているなら「悪い時計」である。

=shutterstock.com

 その対象が「よい」のかどうかは、何が目的であるのかによって変わる。いま手にしているナイフを使って紙を綺麗(きれい)に切ることが出来るなら、それは「封書を開封する」という目的に照らして(つまりペーパーナイフとして)「よいナイフ」である。しかし、同じナイフを使ってリンゴの皮をむくことが出来なければ、それは「果物を食べやすくする」という目的に照らして(つまり果物ナイフとして)「悪いナイフ」である。

 同じことは物質や道具に限らず、人や社会についても当てはまる。ある人物Xのことを「よい教師」であると言うとき、Xは生徒を熱心に指導し、わかりやすい授業をするという、「学校教育」という目的に照らして求められる性質を持っているということである。しかし、Xが車を運転するたびに速度超過をするなら、「交通安全」という目的に照らしてXは「悪いドライバー」であるということになる。

 したがって、単にXは「よい人」だ、と言うとき、そのように言う人(Yとする)が何を目的と考えているかによって意味が違ってくる。もしYが「誰もが平和に暮らす社会」を目的と考えてそう言っているなら、Xは社会秩序を乱さず、困った人を助けるような徳を有しているはずである。しかし、Yが「自分が快適に暮らすこと」を目的と考えてそう言っているなら、XはYにだけ便宜を図るような性質を持っているはずである。社会的には悪人と言われているが、実はいい人だ、とはよく聞く話だが、そこにはこうした目的の設定の違いがある。

 この社会は「よい社会」だ、と言うときも同様である。Xが就職したいと考えているときに、その社会の就職率が高ければ「よい社会」だろうし、YがSNSで自分の意見を情報発信しようとするときに、その社会がインターネットを検閲しているなら「悪い社会」だろう。こうしてXとYが「よい社会」か「悪い社会」かで対立しているときに、Zが「それでもこの社会は犯罪率が低く安心して暮らせるではないか」と言えば、3人ともに「よい社会」だということで合意するかもしれない。

 このように、同じ対象であっても、目的をどう設定するかで「よい/悪い」の判断は変わる。従って、同じ対象であっても、目的を異にする人の間で「よい/悪い」の判断は異なる。つまり世の中には無数の「よい/悪い」の判断(価値判断)があり得ることになる。

 しかし、だからと言って「よい/悪い」の判断は、何の規則性もなく、無秩序になされているわけではない。そこに一定の一貫性を持たせる働きがいくつかある。その代表的なものとして、「人格」「コミュニティー」「因果関係」を挙げておく。

13.人格、コミュニティー、因果関係

 ここでいう「人格」とは、ある人物の価値判断にみられる一定の傾向を決めているもののことである。ある人物Xが「Yは五輪を招致したよい政治家だ」と言っていたものが、翌日には「Yは五輪を招致した悪い政治家だ」と言うことは、全くあり得ないことではないとはいえ、ほとんど考えにくい。

 またXは自分の店を繁盛させ、家族全員が健やかに暮らすことが人生の目標だと思っているとする。するとXは、その目的に照らして、新型コロナの流行状況についても、政府の感染対策の方針についても、アルバイト店員の接客態度についても「よい/悪い」という判断をするだろう。このように同じ人格の価値判断には、一定の一貫性がある。

 そして、このようにそれぞれの目的をもって人生を送る人たちが、一定の範囲内でその目的を共有しているのが「コミュニティー」である。それは同じ商店街で暮らしていて「活気のある街づくり」という目的を共有していることもあれば、ある音楽グループのファンで「ライブを楽しむ」という目的を共有していることもある。こうした同じコミュニティーに所属する人たちは、「ワクチンパスポートを導入する」という対策について、ある程度の違いはあれども、似通った価値判断をするだろう。

 では、「因果関係」はどのようにして「よい/悪い」の判断に一貫性を持たせているのか。例えば、

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