米山正寛(よねやま・まさひろ) ナチュラリスト
自然史科学や農林水産技術などへ関心を寄せるナチュラリスト(修行中)。朝日新聞社で科学記者として取材と執筆に当たったほか、「科学朝日」や「サイアス」の編集部員、公益財団法人森林文化協会「グリーン・パワー」編集長などを務めて2022年春に退社。東北地方に生活の拠点を構えながら、自然との語らいを続けていく。自然豊かな各地へいざなってくれる鉄道のファンでもある。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
保全のために探りたい自然環境調査実施への道筋
沖縄県石垣島の石垣空港を飛び立った朝日新聞社のヘリコプター「ちよどり」は、私たちを乗せて東シナ海の上をひたすら北へ向かった。薄曇りの空を約1時間飛んで目指したのは尖閣諸島の南小島。1992年春のことだった。
今では上陸や上空の飛行さえも難しくなってしまった尖閣諸島だが、戦後まもない1950年前後から2002年ごろまでは生物相の調査を目的として、断続的に大学の研究者や報道機関が訪れていた。私が30年前に出かけることができたのも、朝日新聞社の一員としてアホウドリの繁殖状況を取材する機会があったからだ。
絶滅危惧種のアホウドリは150年ほど前まで、北西太平洋のいくつかの島を繁殖地として、数百万羽の規模で生息していたとみられる。だが、良質な羽毛を目当てに乱獲されて数を減らし、1949年には絶滅宣言がなされるまでになった。その後、1951年に伊豆諸島の鳥島で再発見されたが、当時の個体数はせいぜい2桁の数十羽レベルと推定される。鳥島を繁殖地として、ほそぼそと生きながらえていたわけだ。尖閣諸島では1971年に成鳥が再発見され、1988年には南小島でひな7羽が見つかった。このため鳥島に次ぐ第2の繁殖地と呼ばれるようになっていた。
南小島での繁殖状況を改めて調べようと、1992年4月30日に「ちよどり」へ乗り込んだのは、私のほかに森下東樹カメラマンと航空部のパイロットと整備士、そして東邦大学講師(当時、現在は東邦大学名誉教授)の長谷川博さんだった。長谷川さんはアホウドリ(長谷川さんはこの名前に代えて、オキノタユウと呼ぶことを提唱している)の調査を1976年から鳥島で、1988年からは尖閣諸島でも進めていた。鳥島で軌道に乗り始めていたアホウドリの保護増殖事業を先導していた長谷川さんは、こうした取材に欠かすことのできない研究者だった。
尖閣諸島をめぐる日本と中国との対立はすでに顕在化していたものの、今ほど両国政府の対応は厳しくなかった。国内の関係者との調整はすべて諸先輩方が進めてくれたが、事前に政府関係機関から取材を規制されるようなことはなかったようだ。ただ、微妙な現場であったことは間違いなく、出発前に社内の担当デスクから「今回は政治的なことに踏み込まなくていいから、海鳥のことだけ取材してこい」と言われたのを覚えている。
魚釣島、久場島、南小島、北小島、大正島などから成る尖閣諸島は総面積5.53平方キロメートル。最大の魚釣島の3.81平方キロメートルに対して、南小島は0.40平方キロメートルと小さな楕円形の島だ(面積は外務省のウェブサイトから)。近づいて行くと、島の東西の2カ所にある険しい岩山と、中央部の比較的広い平地が見えた。