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中央銀行の成長分野融資制度――「過保護ママ」日銀の深意 

西井泰之

西井泰之

 銀行にとって「大蔵省(財務省)は父親、日銀は母親」だと、そんな言われ方が「護送船団行政」華やかりし頃、されていた。何かあると合併などを求められて怖い存在の大蔵省に対し、日銀は日々の資金繰りなど細かいことまで気にかけるが、基本的には優しい存在だと。当時に戻ったかのように「デフレ脱却」で日銀が、8月から成長分野で銀行が融資を増やせるよう、総額3兆円の低利資金を供給するという。日銀のやる仕事なのかどうか。中央銀行が個別の融資案件に補助金を出すのに等しい政策の危うさは承知の上のことだろう。「過保護ママ」の”深意”は何なのか。

 「成長基盤強化」を掲げた新制度は、研究開発や起業、医療などの「成長分野」に取り組む企業に銀行が融資をすれば実績に応じて、日銀が最長4年間、政策金利(現行0・1%)で1行当たり1500億円を上限に供給。新分野への投資を増やし需要を生んで、デフレ脱却につなげるという。「異例の業務」(白川日銀総裁)だが、「やれることをとことん考えてほしい」と一番こだわってきたのが、総裁自身だったという。

 バブル崩壊から金融危機、長いデフレに至った「失われた20年」について何度か議論をしたことがある。「デフレは貨幣現象」という大合唱におされて、金融緩和に突き進まざるを得なかった忸怩たる思いも聞いた。

 「日本でデフレ問題の認識を曇らせたのは資産デフレが問題だったのに、一般物価のデフレが不況の原因にされたことと、(貨幣現象とされたために)生産性の低下といった実体経済の問題が後回しにされたことだった。日本経済の生産性はバブル崩壊以前から徐々に落ちていたのだが、バブルでいったん覆い隠され、その後も軽視された」と。日銀による大量の資金供給で銀行の資金繰りの不安は沈めることはできたが、技術進歩などを主に反映した生産性(TFP)は、80年代の1・1%が90年代前半は0・6%、後半はマイナス0・1%に落ち、歩調をあわせるように潜在成長率も80年代の4%半ばから90年代は2%強、00年代は1%弱に落ちた。

 米国では競争力が弱体化した80年代、官民で生産性低下の原因究明が徹底して行われ、90年代には米経済を再生させた。逆に日本はグローバル競争が本格化した大事な時期に、誤ったデフレ認識のもとで政策対応が遅れ処方を間違って、世界の成長から取り残された。「民間だけでなく、政策当局者も政策形成能力を競う時代」と、白川氏も痛感したようだ。新制度はデフレ脱却で「努力」をしていることもみせなければという思惑はあるにしても、日銀があえて前にでることで、生産性低下という実体経済の課題に目を向けさせようということなのだろう。

 だが銀行や企業の姿勢をどこまで変える「呼び水」になるのか。

 「何が成長しそうかは銀行の目利きに任せる。今回の措置をうまく活用して欲しい」というが、資金不足の時代と違って市場からでも資金は調達できるし、今でも預金で集めた資金さえその6割しか融資に回っていない状況だ。長年、横並びと不動産担保融資でやってきた銀行に目利き能力がどこまであるのかどうか。それでも超低利だから、銀行は利ざやが稼げるし、企業も「とりあえず借りるにこしたことはない」という需要は見込めると日銀はいう。だがそもそもそんな借り手がリスクを積極的にとって新事業に乗りだす成長の牽引役を担えるのかだ。

 政策金利が1%以下という時代が約十五年。銀行も企業もぬるま湯にどっぷり浸ってしまっている。じゃぶじゃぶの金融緩和を続けてきたのが壁になりそうな皮肉だ。甘やかし過ぎた子供に手をやく母親の姿に何やら似ている。