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シャープは電機メーカーの日産自動車になれ

小原篤次 大学教員(国際経済、経済政策、金融)

 「なんで関西でっか。海外に出て行きなはれ」。もしアナリストや新聞記者だったら、シャープの経営者にアドバイスしただろう。関西ではなく米国カリフォルニア、台湾、中国などが候補にあがる。世界市場を目指しながら日本人による日本を中心とする開発や販売戦略の立案には限界がある。シャープは、同じ大阪育ちの三洋電機とともに、敗れるメイド・イン・ジャパンのシンボルになりつつある。

 シャープの失敗は、1兆円もの大型液晶パネル工場を大阪府堺市に決めたことに尽きる。大型液晶パネルの需要は日本だけではまかなえない。巨大市場は米国か中国である。液晶パネルメーカーとしての技術は、出資を決めた台湾の鴻海精密工業にも評価された。しかし最終商品の強力な世界ブランドとして、シャープがグローバル企業に成長していたわけではない。液晶パネルの技術力への過信と地元の大阪や関西への拘りが、創業100周年を迎えた企業を危機に追いやっている。

危機の舞台は大阪湾の新日鉄の遊休地

 2006年4月、大阪府堺市は政令指定都市に移行した。全国で15番目、関西では、大阪、京都、神戸に 次ぐ4番目となった。堺は大阪市の南部に隣接し、大阪湾のかつての白砂青松が埋め立てられ、広大な工業用地になった。関西国際空港の候補地にあがったこともある。しかし鉄冷え、重厚長大からの産業構造の変化のなか、新日本製鉄などが遊休地を抱えていた。

 この広大な土地は、堺市の築港八幡町である。八幡製鉄所(新日本製鉄)が、ちょうど筆者が近所で生まれた1961年、操業を開始し、製鉄所の名前が地名になった。同社は、堺の臨海工業地帯に初めて進出を決めた企業だった。しかし、円高や国内鉄鋼需要の低迷で、1980年代に入ると設備の縮小が相次ぎ、1990年代に入り、堺から高炉の火が消える。

 新日鉄が所有する未利用地の一角に、映画館、ゲームセンター、温泉などレジャー施設が進出し、2006年から一部営業を開始した。大阪ガスが保有していた遊休地には堺市立サッカー・ナショナルトレーニングセンターが建設された。

 そして2007年7月、この土地に進出を決めたのが、シャープである。世界最新鋭を謳った大型液晶パネルの工場が建設され、全国公募で地名が「八幡町」から匠町に変わった。「シャープが来るで」。堺市民にとって、シャープは救世者となった。シャープは堺工場を「21世紀型コンビナート」と呼ぶ(ネーミングが下手すぎる。発想が20世紀のままだった)。

 当時の木原敬介・堺市長はシャープ堺工場誘致決定後の2007年10月の記者会見で、次のように語っている。

 「大阪府の補助金、堺市の企業立地推進条例に基づく固定資産税の減免などもありますが、やはり、

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