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吉川洋著『デフレーション』が唱える「デフレの原因は名目賃金の下落」は正しいか?

吉松崇 経済金融アナリスト

 吉川洋東大教授が、今年1月に上梓された『デフレーション』(日本経済新聞出版社)が注目を集めているようだ。この本の新聞広告には、「マクロ経済学研究の第一人者が答えを示す現代デフレ論議の決定版」とある。早速、私も読んでみた。

 端的に言えば、この本の主張は以下の二点である。

 (1)過去のデフレの経験から、「貨幣数量説」は誤りである。したがって、デフレとゼロ金利が並存すると、中央銀行は金利政策という政策手段を奪われるので、金融政策によって、デフレから脱却することは出来ない。

 (2)主要国のなかで日本だけがデフレに陥っているのは、例えば米国がリーマン・ショックを経験しても名目賃金が下落していないのに、日本では下落しており、これこそがデフレの原因である。

 (1)は、要するに、貨幣数量説が誤りなので、量的緩和でデフレを解消することは出来ない、という言わば(白川総裁までの)日銀アンシャン・レジーム擁護論である。このような言説は、これまで、日銀擁護派のエコノミストから、数限りなく聞かされてきた。人々が金融政策に対して抱く「予想(期待)」の役割を無視しているので、こういう結論になるのだが、世界中の大多数のエコノミストは、ケインジアンであれ、マネタリストであれ、このようには考えない。殆どのエコノミストは、インフレ・デフレは貨幣現象(マネタリーな現象)であり金融政策で解決できる、と考えている。幸いなことに、新任の黒田日銀総裁も岩田副総裁も、この大多数のエコノミストと同様に考えておられ、そうした考え方に基づく金融政策が採られることが確実なので、「金融政策でデフレから脱却できるか否か?」というこの論争は、2年のうちに決着がつくだろう。

 しかし、おそらく、この本が注目を集めているのは、上述の論点(2)である。つまり、賃金が下落するという実物的なショックで、日本がデフレに陥った、というのが、この本の目新しい点である。どうしてそのように考えられるのか、吉川氏のロジックを追ってみよう。

吉川モデルは寡占経済モデルだ

 この本の第3章で、吉川氏は貨幣数量説を否定する題材を求めて、イギリスの1873年から1896年の大不況を取り上げ、「この間、マネー・サプライが伸びているのに、デフレに陥っている」と指摘し、これに基づき、第4章で、新古典派・マネタリストの貨幣数量説とこの影響を強く受けたニュー・ケインジアンのポール・クルッグマンを批判する。クルッグマンが、いつもの皮肉な調子で、日銀に対して「無責任に(”credibly irresponsible”)振舞え」と大胆な金融緩和を求めた、1998年のあの有名な論文である。

(Paul Krugman “It’s baaack: Japan’s Slump and the Return of the Liquidity Trap” Brookings Papers on Economic Activity 2, 1998)

 ここで吉川氏が、クルッグマン・モデルの欠陥として指摘するのは、(1)モデルのミクロ的基礎付けとして、合理的に行動する個人を想定しており、また(2)貨幣数量説の妥当性を前提にしている、以上の2点である。吉川氏は、クルッグマン・モデルは、モデルそのものの論理的一貫性に誤りはない、としているので、問題はそのロジックではなく、前提の妥当性にある、と考えているわけである。つまり、「合理的に行動する個人を前提にするマクロ・モデルのミクロ的基礎付け」と「貨幣数量説」が妥当ではない、という主張である。

 それでは、吉川氏は、クルッグマン・モデルのミクロ的基礎付けに替わるどのような価格理論をモデルに持ち込むのだろうか?ここで吉川氏は、カルドアやヒックスを引用して、生産財の価格はその正常な稼働率のもとで計算される生産費用にマージンを上乗せして決定される、という。「マークアップは、需要の価格弾力性を考慮に入れて生産者が戦略的に決めるもので、マークアップの水準は業種、地域、企業によって異なるだろう。しかしカルドアのいうように、

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