メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

シャープ苦境の深淵、2003年の分水嶺

大鹿靖明 ジャーナリスト・ノンフィクション作家(朝日新聞編集委員)

 経営再建中のシャープが3月6日、宿敵の韓国サムスン電子の出資を仰ぐことを発表した。出資額は103億円余にすぎず、現下のシャープの苦境には「焼け石に水」程度の効果しかないが、それでも液晶パネルの安定的な納入先としてサムスンの購買力にすがるしかなかった。サムスンはわずかな出費でシャープの第5位の大株主になる。

売り先のない液晶

 シャープの苦境は、つくった液晶の売り先がないことに尽きる。過大な生産力をもてあまし、稼働率が低いのだ。そのため、大阪府堺市に新設した堺工場の持ち分の約半分を台湾のEMS、鴻海精密工業(ホンハイ)に買い取ってもらい、シャープとホンハイの合弁工場とせざるをえなかった。もう一つの液晶生産拠点である亀山工場は米アップルむけに出荷することにしていたが、アップルのiPhone5やiPadが思わぬ販売不振で、想定したほどの出荷にならない。そこで代わる売り先に開拓したのが、有機ELに軸足を移し、液晶から撤退しつつあったサムスンだった。

 いわば、売り先の確保の見返りに出資を受ける、日本的な「持ち合い」と似た提携劇である。

 しかし、103億円余の出資は、シャープにとって必要な財務体質の強化には、まったくつながらない。「亀山産」と称して工場名がブランド化したシャープは、液晶テレビが大当たりし、株主資本を含む純資産額は2008年3月期決算時には1兆2000億円を超えていた。それが相次ぐ巨額赤字で、貯めに貯めてきた利益剰余金を食いつぶし、いまや2181億円しかない(2013年3月期の第3四半期末時点)。もう一回大赤字を計上すると、債務超過に陥りかねないのだ。

幻の提携劇

 歴史に「もしも(if)」はない。だが、あのときが分水嶺だったのではないか、と思えるときがある。シャープにとってそれは、幻に終わったソニーとの再編構想だった。

 ときに2003年。ソニーの久多良木健氏は副社長に就任してテレビ部門を統括するやいなや、自社に平面テレビに対応できるキーデバイスが何もないことに焦りを感じていた。湾曲していた画面を、平らにした平面ブラウン管テレビ「ベガ」が大当たりしたため、ソニーの技術陣は自社開発のブラウン管技術「トリニトロン」に拘泥し、ブラウン管技術はまだ長持ちするととらえ、将来のキーデバイスとなるかもしれなかった液晶やプラズマを軽んじていた。

 私の取材ノートには、当時のソニー経営陣のこんな言葉が記されている。「2010年までブラウン管テレビを生産し続ける。その後徐々にブラウン管生産をフェイドアウトさせる」。その後、液晶テレビの爆発的普及を考えれば、久多良木氏就任以前のソニーの経営陣が、いかに時代を読み誤っていたかがわかるだろう。

 大阪のシャープ本社に乗り込んだ久多良木氏は、応対に出たシャープの首脳に単刀直入に「液晶パネルの生産をソニーとシャープで一緒にやりましょう」と、合弁生産体制を構築する提携構想を提案した。技術革新の速度が速く、毎年数千億円規模の研究開発投資・設備投資が必要な液晶パネルの生産を、日本の各メーカーが単独で担うのは難しい。だからソニーとシャープが組む「勝ち組連合」の結成を提唱したのである。

 だが、シャープの対応は冷たかった。「ウチはオンリーワンだから、どことも組まない」――そんな門前払いに近い応対だったと当時のソニー幹部は私に話してくれた。プレイステーションで大成功した業界の”スター”である久多良木氏に対して、「久多良木って誰や? 何様や」と見下した態度だったと打ち明ける当時の交渉担当幹部もいる。亀山工場の建設を始めていたシャープには、「ソニー何する者ぞ、我こそが液晶テレビの雄になる」という思いが強かったのだろう。

ソニーへの嫉妬心

 当てが外れた久多良木氏は、

・・・ログインして読む
(残り:約2200文字/本文:約3759文字)