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[5]ジャーナリスト・高橋篤史との対話(上)

大鹿靖明 ジャーナリスト・ノンフィクション作家(朝日新聞編集委員)

 経済取材をしているなかで、相手先企業の経済的得失に直結することを記事にすれば、当該企業から反発、反撃を受けることはある。猛烈な抗議、広告の出稿停止(これが実は報道機関が一番萎縮する)、さらには損害賠償を求めた訴訟の提起、しかも請求額は高額化している。だからこそ経済記者は、危ない橋を渡るのを厭い、あまり相手先企業の機嫌を損ねないよう大手企業や業界の翼賛的な報道をしがちになりかねない。

 

 そうしたなかで週刊東洋経済の高橋篤史(2009年に退社して現在はフリーランス)は、企業犯罪や経済事件の「闇」について独力で挑んできた。つまり警察や検察の捜査、国税や証券取引等監視委員会の調査に頼らずに、自力で発掘・調査し、報道してきた稀有な存在だ。新潮ドキュメント賞候補作になった彼の4冊目の著書『凋落』(2011年、東洋経済新報社)は、日本振興銀行の木村剛とSFCG(旧商工ファンド)の大島健伸という、対照的な生い立ちの2人の人生が一瞬の交錯を見せ、やがて共に破綻してゆく経済事件ノンフィクションの傑作だ。ちょうど出版された直後に東日本大震災が発生し、以来、世間が震災と原発一色に染まり、せっかくの労作が霞んでしまったのが残念である。

 

 今回の面談を依頼するために前回の角幡唯介との対談を送ると、「奇縁だな」というメールが返ってきた。

 

 「じつは当方も日刊工業新聞在籍時の95年3月~96年2月に富山支局おりました。その時、業界紙におりながら、一番熱心に取材したのが出し平ダム問題でした(中略)社内で跳ねっ返りでしたのでけっこう鼻息荒くやっていました」

 

 工業紙でありながら「環境問題純情派」だったとは、異なことである。

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 ――前回の角幡唯介さん同様に高橋さんも、関西電力が黒部川に造ったダムの排砂問題を取材してこられたのですね?

 

 高橋 そうなんです。もともと早稲田の学生時代に読んだ本多勝一さんや鎌田慧さんに惹かれてマスコミ志望になり、朝毎はじめ大手マスコミを一通り受けたものの、箸にも棒にもかからず、合格したのは日刊工業新聞だったという(笑い)。同じ「新聞」と名前が付くものだから、そう遠くかけ離れてもいないだろうと思って入ったのです。

高橋篤史氏

 最初に名古屋支社編集部に配属されて、2年ほど駆け出しの期間を経て、そのあとの1995年3月から96年2月まで富山支局にいました。学生時代に読んでいたのが本多さんで、しかも中日新聞王国の愛知県出身なのに実家がとっていたのが朝日だったのですよ。それで環境問題に興味を持ち続けていて。富山支局で日常取材の間に何かないかなと思っていたら「出し平ダム」というのに出会ったのです。

 

 当然、取材のスタンスは環境保護第一でした。書いた記事はデスクの手が入って、やや中立に寄ったものの、報道する姿勢は環境第一、ダムの排砂反対でしたね。

 

 実際に試験排砂が始まる前までは地元のマスコミもそれほど盛り上がっていなかったのですが、そんなころから取材をはじめて記事を書いていました。いざ試験排砂が始まると、物理的に、絵的に、海が泥水で汚染されてくことがはっきりとわかるのですね。それで各放送局が取り上げて全国ニュースになったのですが、この過程を通じて「自分は記者だな」という自覚を強くもったのです。社会の片隅に埋もれていた問題を自分が発掘して報道して、やがて全国ニュースになるような問題として広く認識されていく過程を体験し、これがいわば自分が記者であることを気づかされる「原初的」な体験だったのですよ。

 

 大手紙に顕著なことだと思うのですが、記者によっては最初から大きな問題を手がけたがる人がいると思うのです。何となく世間的に大きなニュースと思われる問題の取材にかかわって「自分は大きな取材をやっているんだぞ」と思い込むのとは違って、僕は「三流」新聞社の田舎の支局で実質的な記者生活がスタートしたので、発想がまるで違うんですよ。

 

 ≪日刊工業新聞は、業界紙と呼ぶには、やや幅広いジャンルを取り上げる工業紙で、主に電機や機械産業の動向を詳しく報じてきた。ライバル紙に日経産業新聞と日本工業新聞(現フジサンケイビジネスアイ)がある。紙面のほとんどが製造業の個別企業の細かな動きのフォローに充てられており、一般に環境問題や社会問題に熱心という印象は乏しい≫

 

 ――日刊工でよくそうしたニュースを取り上げさせてもらえましたね。

 

 高橋 名古屋支社でつくる中部版というページがあって、そこのデスクとは割と通じていて、そこで自分の希望を通して排砂とか産廃問題とかの記事を書いてきたのです。

 

 富山で1年間働いて、その次が岐阜支局に行きました。96年3月から98年2月にかけてのことです。そのときも似たような経験をしていて、日常取材のかたわら自分がやりたいことを探したところ御嵩町の産業廃棄物処分場計画に遭遇しました。柳川喜郎町長というNHKの解説委員だった町長がいて、産廃計画の白紙撤回を申し立てていたのです。

 

 柳川さんが町長になって前町長と業者の密約を暴いたのが大きく中日新聞に報道されたものの、それから1年たって僕が赴任したころには問題はやや静まり返っていて、そんなときから取材を始め、記事を書いていったのですね。その直後96年10月に柳川町長が襲われる大きな事件が起きて(注・犯人は検挙されないまま、2011年に公訴時効を迎える)、住民投票条例制定への動きが加速し、さらに住民投票が行われて産廃反対が圧倒的多数を得ました。こうやって問題が大きくなっていく過程をずっとみることができた体験が大きかったですね。

 

 当時のことを振り返ると、朝毎読の「一流紙」に負けないぞという気持ちがあったのかもしれませんが、むしろ少しでも大手紙の記者のやっている仕事に近づきたいということのほうが真相に近いかなとも思いますね。

 

 ――そのあと東洋経済新報社に転職されたのですよね?

 

 高橋 そうです。日刊工業新聞社を、岐阜支局を最後に辞めて、98年4月に東洋経済新報社に入ったのです。

 

 東洋経済は、基本的には年に4回発行されている「四季報記者」というのをやらないといけないのです。日本にある3000社以上もの上場企業を、業界ごとに担当記者に割り振って、

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