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[16]探訪記者・坂上遼(小俣一平)との対話(下)

大鹿靖明 ジャーナリスト・ノンフィクション作家(朝日新聞編集委員)

 ――会長の覚えもめでたく家父長的な支配構造の中で順調に出世していて、いったい『無念は力』の無念とは何がモチーフだったのでしょうか?

 ≪38歳で亡くなった伝説のルポライター児玉隆也の生涯を追った坂上遼の『無念は力』を読んだとき、私は「こういう手法もあるのか」と新鮮な驚きを感じた。私たちジャーナリストは政治やビジネス、国際ニュース、犯罪など日々起こる出来事を「飯のタネ」とし、自分たち自身やその属する組織の内部を語ることはあまりない(あっても特ダネの自慢話がほとんど)。一人のルポライターの生涯を、彼が残した記事や取材ノート、スケジュール帳から辿って克明に描いた点に、「なるほど、記者(ジャーナリスト、ルポライター)の一生も題材足りうるのか」と、コロンブスの卵的な着想の新奇さに感じ入った。

 坂上(小俣氏)がこの取材にとりかかったのは44歳の1996年のときで、上梓するまでに6年半を費やしている。「本業を抱えている以上、休日くらいしか取材に動けず」(おわりに、373ページ)とある。生命保険を解約して取材資金を捻出し、休日に全国を旅して取材を進めたという労作である。

 『無念は力』は、児玉隆也の数々の「無念」――書こうとした記事が田中角栄サイドの圧力によってボツになった「無念」、あるいは3児を残して急逝しなければならなかった「無念」――を想い、児玉が「『書くこと』で『無念』を克服してきた」と位置づけている。その筆致から坂上自身にも「無念」があり、それが彼のエンジンになっているような気がした≫

 小俣 その件については詳しくは話せませんが、自分の人生で最も信頼していた人間に、寝耳に水というか、完膚なきまでに裏切られたということです。ひと、それぞれの生き方、身過ぎ世過ぎの話ですから悪くは言えませんが。この歳になれば、まぁそれも人生だなと思えるようになりましたが。

 ――じゃあ、社内で左遷されたとかニュースをつぶされたとか、そういう社内の無念が原動力と言うのではなくて、裏切られたというのが原動力ですか?

 小俣 そうですね。人にはいろんな無念があるので、それがいつも仕事と直結しているわけではありません。人間不信や自分の不甲斐なさ、さまざまな無念な気持ちからスタートしたのです。

 そのころ一緒に飲んでいた文藝春秋社の編集者に「大学時代に読んだ児玉隆也さんが好きで、いずれこの人のことを書いてみたい」と話したのがきっかけで、ご遺族を紹介してもらい、取材を始めました。あのころ自分を支えるのは、本を書くことしかないのではないかと思うようになっていて。

 まず児玉さんの遺族から段ボール箱6箱の資料を借りました。児玉さんはものすごくきれいな字で取材メモを書いていて、それにスケジュール帳も残されていたので、これらの資料を読み込んだり名前が出てくる人たちに取材して確認したりと。仕事をしながらですから取材に4年以上かけたと思います。

 そしてちょうど2001年の失脚、左遷の時期とも重なって一気に執筆に向かうわけです。これが成功したら探訪記者、つまりフリーのルポライターになろうと思っていました。講談社ノンフィクション賞の最終候補まで残ったのですがダメでした。で、結局、NHKも辞めるに辞められず。その後も本の構成を考えたり取材したり執筆したりという日々を送るのですが、それはそれで愉しかった。好きなんですね、そういう生活が。

 ――この『無念は力』をはじめとして、吉永祐介主任検事らを描いた『ロッキード秘録』、菅生事件を追いかける記者たちの物語である『消えた警官』、坂上遼名義の3冊のノンフィクションは、古き良きジャーナリズムへの懐旧が感じられます。グッド・オールド・デイズですね。

 小俣 そうです。私は、そういうジャーナリズムが輝いている頃のことを書こうと思っているんです。

 いま用意しているのは、検事と記者との関係を描きながら、コンプレックスをバネにしていったという話、もう一つは調査報道を打ち立てたある古典的なジャーナリストの評伝です。

 ――そういう古典的なジャーナリストを描く中で、今の足元の現状はどう見ているのですか。職人的な気質は失われてないですか?

 小俣 それは昔から言われることですよ。いまも昔もなく「最近の若い者は」って言うでしょう。

 ただし、最近は組織内では常に管理が先立つようになっている。それで自己規制が強まっているように思えます。そこが

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