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[18]ルポライター 杉山春との対話(中)

大鹿靖明 ジャーナリスト・ノンフィクション作家(朝日新聞編集委員)

 ――そもそもどういういきさつでライターになられたのですか。

 杉山 早稲田の一文を1981年に卒業しました。私の母は、1歳半年上の兄と男女分け隔てなく育てる方針だったので、早稲田を出る前まではそう育てられたのですが、大学を出たときはまだ男女雇用機会均等法の施行される前で、まず職がない。何をしていいものかさっぱりわからないし、花嫁になるという選択もそのときは考えられない。

杉山春さん

 自分が「女性」だということで、すんなり社会に出て行きたくても出て行けない。大学を出たときに初めて「女性は男と違う」というのに気づかされました。

 大学を出たときには、歌を歌いたいとも思っていたので、結局、情報処理学会の事務局に勤めて学会誌をつくる作業を1年半ほどやっていました。

 ――その後は?

 杉山 その後、イタリアに半年間オペラの修行に行きました。それからオペラシアター「こんにゃく座」という劇団のオペラ歌手の研修生になりました。

 ――そうだったのですか。

 杉山 一方で「イングリッシュ・ジャーナル」など語学教材を出している出版社のアルクで編集のアルバイトをするようにもなりました。「好きに記事を書いていい」と言われたので、それで自分で企画を立てていろいろと書いていましたね。

 そうするうち、ある日「こんにゃく座」から「役をあげましょう」と言われまして。そうすると、午前10時から午後10時まで劇団に行かないといけなくなり、生計を立てるアルクでのバイトができなくなる、と。

 役をつけるといわれても歌のほうではなかなか生活ができない。学校公演をしていたのですが、それだけでは、とてもとても……。結構声は出たのですが、あがり症で、いまひとつ本番に弱い。

 アルクでは、日本に出稼ぎにきているフィリピン人の話を会報誌「CAT」に書いていました。やりたい企画を立てると、やらせてくれる。読者からは、ダイレクトに感想が葉書で寄せられる。やりたいことができた状態だったのです。しかも学校回りをして歌を歌うより、雑誌で記事を書くほうがお金になりました。それで悩みに悩みぬいて歌うことをあきらめ、書くほうにきたのです。

 するとアルクで書いていた記事を、たまたま週刊文春編集部の編集者の今井淳さん(故人)が読んでいて、「『行くカネ、来るカネ』という企画があるんだけど、そこでインタビューして記事を書かないか」と誘われました。

 当時は景気も良くて雑誌が全盛の時代です。1980年代から90年代前半まで。今からでは考えられないほど、仕事をやらせてもらえる環境でした。

 ノンフィクションライターの野村進さんが「月刊現代」で「ニッポンの現場」という連載記事(1992~93年)をもったときにアシスタントで使ってもらいました。それから集英社の「BART(バート)」という雑誌でも野村さんのアシスタントをやって、野村さんとは計2年ほど一緒に働きました。

 野村さんの勉強会にいたときに「月刊現代」編集長の矢吹俊吉さん(現、講談社サイエンティフィク社長)に「何かやりたいことはないのか」と聞かれたんです。アルクの仕事をしていて、たまたま満州の開拓民に嫁ぎ、残留婦人となり約30年後に帰国した女性を支援している人を知り、彼にインタビューをして、その女性にも少しずつ話を聞き始めていたんですね。その話を矢吹さんにしたら「書いてみないか」と言われて。

 それで一冊目のノンフィクション『満州女塾』を書きました。32歳で始めて、出来上がったのは38歳のとき、6年かかりました。その間結婚して妊娠して。

 ≪『満州女塾』(まんしゅうじょじゅく)は、日本から旧満州国に入植した開拓農家の男性の妻にさせられた女性の運命を描いたノンフィクションだ。植民地政策を推し進めた拓務省は、「大和民族の純潔を保持」し、「一滴の混血も許されない」ため、適齢期を迎えた男たちに日本の若い女性を引きあわせる政策をとった。貧しい、地方出身の若い女性たち約3000人が「大陸雄飛」の喧伝に夢をふくらませ日本から旅立ったが、彼女たちはそこで、まさか結婚を強制されるとは思っていなかった。海を渡った女性たちに強制結婚、そして日本の敗戦という過酷な運命が待ち構えていた。昭和史の知られざる事実を発掘したスクープ・ノンフィクションである。講談社ノンフィクション賞の候補作にもなった≫

 ――読んでいて圧倒されました。ものすごく完成度が高いですね。6年もかけて取材されたそうですが、その間の記憶の維持はどうされたのでしょう。私は聞いたことをすぐ忘れてしまう性質なので、秘訣をお教えください。

 杉山 私は仕事の掛け持ちができないので、結果的にそのことばかりを考えて仕事をやっていた6年間でした。

 私は、取材相手の話を繰り返し聞いて、事実や思いを自分の中に焼き付けて書くような癖があります。

 ちょうど『満州女塾』にとりかかっていた時期は、

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