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朝鮮陶磁器に見る「36年間」のつめ跡

14代沈寿官氏が語った思い

木代泰之 経済・科学ジャーナリスト

消えた「植民地支配」

 9月18日、外務省のホームページ(歴史問題Q&A)から「植民地支配」という言葉が消えた。安倍首相の戦後70年談話を踏まえての措置である。

 日露戦争に勝った日本は1910年から45年までの36年間、朝鮮を併合し植民地にした。その影響は産業から文化まで幅広い分野に及ぶが、今なお思いがけないところに痕跡を残している。

薩摩焼宗家、14代沈寿官さん=2010年4月薩摩焼宗家、14代沈寿官さん=2010年4月

 その一つが朝鮮陶磁器である。薩摩焼の窯元である第14代沈寿官氏(注1)は、日本の植民地支配が朝鮮陶磁器に及ぼした負の影響について、筆者のインタビューで長時間語ったことがある。

 それは1996年のことだが、植民地にしたこと自体、日本人の記憶から忘れられようとしている今、改めてその言葉を振り返ってみたい。

 沈寿官氏の祖先は、417年前の1598年(慶長3年)、豊臣秀吉の朝鮮出征の際に島津義弘によって日本に連行された朝鮮人陶工である。それから数えて14代目の沈寿官氏は39歳だった1966年、初めて祖国である韓国を訪問した。

 「その時は舞い上がって天にも昇る気持ちでした。初代が渡来した海の道を逆にたどろうと、わざわざ釜山まで船で行ったほどです。朝鮮陶磁器に強い憧れがありました。古く新羅時代には灰色の焼き物、高麗時代には青磁、李氏朝鮮時代には白磁が栄えた。それ以外の雑器も日本で茶道具として愛された。国が平和なとき焼き物は美しくなるのです」

 しかし、その後、韓国各地の窯を何度も訪ねて研究するうちに呆然とする。過去には世界に名だたる陶磁器があるのに、戦後の韓国には「これは」と思うものがほとんど出現していないのだ。とくに釉薬の水準が低いことに驚く。

 「同行した韓国の大学教授が『このやり方を教えたのは朝鮮総督府の工業試験所なのだ』と言うのです。ばらつきのない一様な色を出すには簡単な方法なので、日本人技師は善意で教えたのでしょう。しかし、それが文化へのつめ跡として残っている。恐ろしいことだと思いました。相手国の文化にお構いなしに自国の文化を教えこむのは、やるべきことではありません」

 「植民地とは本来、本国が市場としてモノを売るためにそうするのです。日本は朝鮮に陶器工場をつくったり食器類を輸出したりして販路を広げた。これで朝鮮伝統の陶磁器は根こそぎやられた。焼き物は国の栄枯盛衰を映し出します」

 明治の日本の陶磁器産業は、名古屋が主な産地だった。高級な伊万里焼などより値段が安くて国際競争力がある瀬戸・美濃の陶磁器が注目されたからである。京都や各藩の窯に散らばっていた絵付け業者は続々と名古屋に集結した。

近代史の中の出来事

 1904年(明治37年)には、日本陶器合弁会社の近代工場が誕生し、量産品が名古屋港から欧米に輸出された。しかし、1920年に世界恐慌が起きて欧米で売れなくなると、業界は植民地である朝鮮半島などアジアへの輸出に活路を見出していった。14代が嘆いた朝鮮陶磁器の衰退は、こうした近代史の中で起きた出来事だった。

「窯模様」・寿官陶苑 14代沈寿官=1998年8月「窯模様」・寿官陶苑 14代沈寿官=1998年8月

  「36年間の打撃は大きかった。日本の工場に雇われた陶工たちは細々と技術をつなぎ、戦後まで生き残って朝鮮陶磁器を復興させようとしましたが、新時代の焼き物を創出するには力不足だったのです」

 日本人の中にも植民地時代、朝鮮陶磁器の行く末を危惧して保護に力を注いだ人々がいた。「民芸運動の父」と呼ばれる柳宗悦や、朝鮮で木工や植林を営んでいた浅川伯教・巧兄弟である。柳は植民地支配に伴う文化の教化や同化を「おぞましいもの」とみなしていたが、彼の思いとは関係なく朝鮮の陶磁器文化は押し流されていった。

 韓国を初訪問した66年、14代沈寿官氏はソウル大学に招かれて講演した。口々に日本を非難する学生たちを前にこう語りかけた。
 「(みなさんが)36年間の圧政を言い過ぎるのは若い韓国にとってどうであろうか。その心情はすでに後ろ向きである。あなた方が36年を言うなら、私は370年を言わねばならない」

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