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[41]露呈した働き手不在の「働き方改革」

働き手の心身を守る観点からの働き方の総見直しが必要だ

竹信三恵子 ジャーナリスト、和光大学名誉教授

 「働き方改革」の柱のひとつだった裁量労働制を、2月28日、政府が断念した。過労死など働き手の生命にかかわる制度改定について、その土台になるデータがいい加減に扱われていたことが、厳しく問われた形だ。だが、問題は終わったわけではない。今回のデータ問題をきっかけに、働き手が主体であるはずの「働き方」を決めるほとんどの局面で、働き手は不在だったという異様な状況が露呈しつつあるからだ。

「森友・加計問題以上に深刻だ」

デモの参加者は、テンポの良い音楽のリズムに合わせて「裁量労働制はやめろ」などと声を上げた=2月、東京・JR新宿駅前 デモの参加者は、テンポの良い音楽のリズムに合わせて「裁量労働制はやめろ」などと声を上げた=2月、東京・JR新宿駅前

 「今回の問題は森友・加計問題以上だ」。知人の30代の会社員に、こう言われた。

 森本・加計問題は、安倍晋三首相が知人を優遇するために政策を歪(ゆが)めたのではないかとの疑いが持たれ、しかも、関係するデータを役所が廃棄したと突っぱねて公開を拒んで批判を浴びた。今回の裁量労働データ問題も、法案に有利なようなデータを歪め、「ない」とされていた原票が厚労省の倉庫にあったことが判明したという点で似ている。だが、過労死など働き手の生死や生活全般に直接関わる問題だけに、問題はより深刻、というのだ。

 意外に意識されていないが、労働時間規制をめぐる法律は働き手の健康や生活の暮らしの大枠を決定する。よほどの資産家でもない限り、生活の糧は働いて得る賃金頼みだ。だから、人々は生活時間を、働き方に応じて伸縮するからだ。

 だからこそ、その改定には働き手の置かれている現状をできる限り正確に、客観的につかむことが問われる。特に裁量労働制は、危うさ満載の制度だ。

働き手不在の「実態調査」

 「一定の残業時間を見込んで契約し、その範囲内で働き手の裁量で労働時間を決める働き方」という定義だけを見ると、「自分の裁量で好きな時に帰れる」かのように見える。だが問題は、ほとんどの場合、業務の量は会社の裁量次第で、「自分の裁量」は効かないことだ。その結果、仕事の量を増やされれば自分の「裁量」でサービス残業を引き受ける事態になりかねない。

 たとえば、現場にじかに触れる労働基準監督官らの労組、「全労働」は、その提言の中で次のように述べている。

 「労働局や労働基準監督署を訪れる労働者の声に真摯に耳を傾けるならば、いかに多くの労働者が過重労働に苦しみながら労働時間規制の強化を求めているか、また、不定形・不安定な働き方に苦しみながら就労形態の改善(拘束時間の規制や休息時間の確保等)を求めているかがわかるであろう。「多様で柔軟な働き方」と言われる裁量労働制の適用を受け(中略)、ノルマ達成を厳しく迫られたり、あるいは激しい選別や競争にさらされたりする結果、無制限な長時間労働を余儀なくされている(多くは健康障害を発症)という訴えは後を絶たない。一方、労働時間規制の緩和を求める労働者は、皆無といってよい。」(全労働公式サイト:2013年7月 「雇用分野の『規制改革』をどう見るか」)

 にもかかわらず、その基礎になるはずのデータが、裁量労働制の労働時間の方が短く見える形で提出され、それを精査もせずに、塩崎恭久厚労相が2015年、2017年の国会で、安倍晋三首相が今年1月29日の国会答弁で「一般労働者より短いデータもある」と繰り返したことが働き手の不信を招いた。法案の土台となるはずの調査が働き手の現実を素通りしていたという意味で、調査の時点での「働き手の不在」が見えてくる。

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