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シダックス凋落に見る“名経営者”の晩節

創業者の転機はいつだったのか。長男への禅譲か、道楽に興じた後か

大鹿靖明 ジャーナリスト・ノンフィクション作家(朝日新聞編集委員)

 

シダックスのカラオケ店。「カラオケ館」などを展開するB&Vに売却される=東京都新宿区、2018年5月31日

 シダックス創業者の志太勤取締役最高顧問(83)は立志伝中の人である。

 高校卒業後、大衆食堂を開業。やがて企業や工場の社員食堂の運営を引き受け、病院や老人ホームに食事を提供する給食サービスの大手にのしあがった。さらに豊富なメニューを加えた「レストランカラオケ」を打ち出し、夜のスナックで歌われたカラオケを明るく家族ぐるみで楽しめるレジャーに変えた。小泉政権では規制改革・民間開放推進会議の委員として「規制緩和」の旗振り役だった。

 その名経営者がすっかり変わってしまった。何が起きたのか――。

「カラオケ館」との差は歴然

 「一度、店を見に行ってください」。シダックスの前途を憂慮する元幹部社員に勧められて、私は6月、同僚の女性記者と一緒に東京の繁華街にあるシダックスに足を運んだ。

 店は幹線道路沿いの一等地にあるものの、週末の夜なのに閑散としている。ソファーはかなり古び、照明はやけに暗い。店内全体が薄暗く、内装の更新がはかられていないような印象を受けた。

 メニューを見ると、人気ナンバーワンという「メガポテト」は820円。「ちょっと高いですね」と同僚が言う。

 次いでB&V社が運営する「カラオケ館」に入ってみて、驚いた。店内の明るさが全然違う。それに店内がきれいだ。仕事帰りの若い男女でにぎわっていた。

 両店に各30分ずつしかいなかったが、その差は歴然としていた。料金は数百円程度の違いしかない。

 店を見に行くように勧めた元幹部が「シダックスは『きれい、おいしい、楽しい』が取り柄だったのに、すっかり変わってしまった。カラオケの市場規模が大きくなっている中で、一人負けです」と言っていたが、その通りかもしれない。

凋落の一途、「タダ」で譲渡

 シダックスは6月7日、カラオケ事業を運営する傘下の2社を、ライバルのB&Vにただで譲渡する。「ただ」なのは、シダックスのカラオケ事業が慢性的な赤字で債務超過に陥っていたからだった。

 三井住友銀行企業調査部が2017年8月まとめたレポート「カラオケ業界の動向」によると、景気後退の影響を受けて縮小傾向にあったカラオケ市場は、2010年ごろを底に微増で推移するようになり、「今後も景気動向に左右されつつも底堅い需要が見込まれる」とされている。

 しかし、2007年度に629億円の売上高があったシダックスのカラオケ事業は2017年度には170億円と往時の4分の1の規模に縮んだ。シダックスに代わって業界トップになった第一興商のビッグエコーの売上高は610億円。まさに攻守ところを入れ替えた格好だ。

 さらに若者向けに低価格路線を打ち出した「まねきねこ」や「カラオケバンバン」「ジャンボカラオケ広場」が急成長し、より高級感を打ち出した「コートダジュール」も台頭。多様な競合相手の登場によって、中途半端な立ち位置となったシダックスだけが凋落の一途をたどった。

 なぜ、こうなったのか。「人員削減のため支配人を辞めさせてアルバイトに代用させたり、内装や施設の維持管理への投資をカットしたりしてきたからです。『これではうまくいかない』と声をあげると、異動させる。創業者の側近によるそんな恐怖政治も社内を支配しています」。そう元幹部は打ち明けた。

 これに対して、創業者の志太勤氏はこう反論する。「昔はサラリーマンが連れだって飲みに来たが、いまは一人でカラオケをやる時代。コンビニから食べ物を買って持ち込むようになり、豪華な食事をしながらカラオケという時代ではなくなった。車の飲酒運転への規制も厳しくなったし……」。そのうえで、「時代にあわないものは外していく。カラオケは時代にうまく乗りきれなかった。過去があまりにも良かったので深入りしてしまったが、5年ぐらい前から社会情勢が変わってきた。あれを切ってしまえば問題はない。シダックスはこれからえらい利益が出る会社になりますよ」と言った。

シダックスの創業者で最高顧問の志太勤氏=2018年6月20日

現代版「木下藤吉郎」

 志太氏の半生は七転び八起きだった。高校球児として鳴らし、甲子園を夢見たが、多発性関節炎になり野球を断念した。このショックは大きく、自殺しようと「自殺の名所」の海岸をさまよっていると、公園の管理人に引き留められたという経験をもつ。

 心機一転、大衆食堂「大ごたつ」を創業。百人分の天ぷらを一時間で揚げる毎日で、今でも天ぷらを揚げるのは上手だそうだ。しかし、食堂前の道路とは別にバイパスができると、客足はそちらに流れて落ち込み、廃業に追い込まれた。

 やがて静岡県富士市でアイスキャンディ事業を始め、県内有数の規模に成長したものの、今度は火事で工場を焼失してしまう。火災保険に入っていなかったため、立ち直るのは難しく、「夜逃げ」のような形で上京した。それも、焼け落ちた工場のくず鉄を拾い集めて汽車賃を捻出してのことだった。

 知り合いの伝手を頼って富士写真フイルムの調布現像所の社員食堂に潜り込み、1960年に調布市に富士食品工業を創業した。以来、官公庁や工場の社員食堂の受託や給食サービスなどで事業を急拡大していった。

 1993年にはレストランカラオケ事業に参入し、2001年に株式公開した。志太起業塾を主宰するとともにキャピタルゲインを元手にした志太ファンドを創設し、次代の若手経営者の育成に努めた。

 苦労の末に成り上がり、功成り名を遂げると、慕う者が集ってきた。さながら現代版の「木下藤吉郎」と言えるだろう。

「今太閤」、長男へ禅譲

 2000年ごろからは名経営者として評判をほしいままにした。

 給食受託サービスという新ビジネスに続き、「レストランカラオケ」を提唱し、カラオケを家族やママ友が集える明るい健康的なものにした。ニュービジネス協議会の会長に就任すると、経産官僚や自民党の政治家たちが志太氏の周りに現れるようになり、志太氏は政治家たちに気前よく振る舞った。

 小泉政権では規制改革推進会議のメンバーとして規制緩和とベンチャー育成の旗振り役となった。野村克也監督を招聘して社会人野球にも参入した。あのとき志太氏は「今太閤」であった。

 長男勤一氏が40歳になった1997年に社長職を禅譲した。

「彼はアメリカで8年徹底して勉強してきましたからね。俺と違うロジスティックの考え方を採り入れて、これには負けたと思ったの。多摩大の大学院で論文を書いて、そこで書いてあったことが今の会社の収入源になっているんです」。家族の愛は強い。まるで秀頼を愛する秀吉のようだ。

父子と「石田三成」、3人の「ボード会議」

 勤一体制になってから、それまで苦楽をともにしてきた幹部社員たちとは別に、ダイエーや西友、オンワードなど外部出身の幹部候補生を相次いでスカウトしていった。いわば、営業能力のある武闘派だけでなく、会社の成長とともに石田三成型の文官を必要としたのではなかろうか。

 「それまでは志太家の奉公人の集まりでした。しかし、私は志太家に仕えるのではなくシダックスに入社した。そういう意識で入社しました」とオンワード出身の遠山秀徳副会長は言う。

 今、中枢にいるのが、この遠山副会長だ。副会長の肩書は有するが、取締役はとうに退いており、役員ではない。

 この遠山氏に志太勤、勤一父子を交えた3人で「ボード会議」という会議体を構成する。「取締役会は承認か最後の意見を聞く会。大枠の議案は3人で作っている」(遠山氏)という。

 遠山氏は語る。「カラオケ事業の失敗は内部崩壊です。以前は8000万円から1億円程度で店を出店していたのが、一店舗あたり3億5000万円とか5億6000万円とか多額の資金を投入するようになった。その過剰投資を減損処理しなければならず、この10年近くで300億円も減損処理をしました。この過剰投資のツケが一番大きい。それに私たちは憩いの場、集いの場としてカラオケに固執してきましたが、世間は一人カラオケの時代になってしまった」

 こうした見方に対し、元幹部は「適切な投資を怠ってきたのがカラオケ事業の失敗の原因です。縮小均衡ではなく、志太オーナーがもう一度、前線に復帰し、経営の采配を振るえば、必ず立ち直れるはずなのに」と親政を渇望する。

 だが、志太氏に現場復帰の意欲はなさそうだ。「現場に戻って、もう一度会社を建て直す気はないですか」と尋ねると、「十分に建て直っている」という返事だった。

 シダックスは赤字続きなのに自己資本を取り崩して配当を継続している。しかも株式の40%超を志太一族が握っており、会社の財務基盤が弱まるのにオーナー家が潤う現象がおきている。その点を尋ねると、志太氏は「何が言いたいんだ」と怒り出し、「企業は株主があって成り立っている」と言った。

「老太閤」、ワイナリーにのめりこむ

 志太氏は著書「燃えよ!」の中で、「この会社の中で一番働いているのは私だ」「オーナー社長は常に『舟底の下は地獄』の漁師の心境だ」と書いている。

 株式公開時には20億円相当の25万株を当時の社員1300人に無償譲渡した。必死に働き、社員にも報いたのだから、創業者利益の一部は道楽に使わせてもらう、とも書いている。そうして伊豆にある山荘で始めた葡萄栽培を皮切りに、次第にワイン用の葡萄栽培にのめりこみ、やがてワイナリーに育て上げた。

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