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平成の間に日本経済が失ったもの

武田淳 伊藤忠総研チーフエコノミスト

平均1%の低成長時代

 5月の改元まで残り半年を切った。新しい時代のスタートを迎えるにあたり、約30年間に渡った平成という時代を経済の側面から振り返ってみたい。

平成元年の東京証券取引所の「大納会」 。この日、史上最高値の株価をつけた=1989年12月29日

 まずは経済成長率であるが、6%成長を記録した平成2年度などバブル景気末期を含んでいるにもかかわらず、平成30年間の平均成長率はわずか1.3%程度にとどまる。バブル崩壊後の平成3年度以降で計算すると1%にも満たない。昭和の平均成長率が、統計で確認できる昭和30年度以降で平均6.6%であることと比べれば、平成がいかに低成長であったかが良く分かる。

 経済成長の段階に分けて見れば、平成という時代の位置付けをより理解できるだろう。戦後の混乱から立ち直り「もはや戦後ではない」(昭和31年度経済白書)と表現された頃から第一次オイルショック(昭和48年)までの「高度経済成長期」において、平均成長率は9%強もあった。そして、戦後初めてのマイナス成長(昭和49年度)を経て、成長ペースを落としつつ製造業のハイテク化やサービス産業の台頭という産業構造の変化を進めた「中成長期」は、その終焉をバブル景気の頂点(平成3年)とすると、平均成長率は4%であり、高度経済成長期の半分以下まで減速する。

 その後、バブル崩壊によって戦後2度目のマイナス成長を記録した平成5年度から平成29年度までの24年間は、平均成長率が約1%まで低下する。この間、マイナス成長となった年が5回もあり、うち2回はリーマン・ショック後の2年連続(平成20~21年度)、残りは、初めての消費税率引き上げ(3%→5%)直後を襲ったアジア金融危機(平成10年度)、ITバブル崩壊(平成13年度)、2回目の消費税率引き上げ(5%→8%)後の落ち込み(平成26年度)である。そのほか、マイナス成長とはならなかったものの、阪神・淡路大震災(平成7年)や東日本大震災(平成23年)という大災害にも見舞われ、失われた20年とも30年とも表現される低成長時代、それが多くの人がイメージする平成であろう。

平成を象徴する「デフレ」

 そして、経済という観点では、物価下落の継続、すなわち「デフレ」こそが平成の象徴的な事象であろう。この場合の物価とは、一般的に消費者物価であるが、その平成に入ってからの推移を見ると、平成2年度の前年比+3.3%をピークに鈍化が続き、7年度には戦後初めてのマイナスを記録、さらには11年度から17年度まで7年連続、21年度から24年度まで4年連続でマイナスと、平成29年度までの間に13回もマイナスとなる年があった。そのため、29年度の物価水準は、バブルが崩壊した5年度から3%強上昇したに過ぎず、この上昇幅は2度の消費税率引き上げで全て説明できる。つまり、この間に物価は実質的に全く上昇しなかったということである。

 物価がここまで抑制された原因の一つに、バブル崩壊によって株式や不動産など資産価格の下落が続いたことが指摘できる。平成バブルの特徴は、言うまでもなく資産価格の行き過ぎた上昇であり、明らかに割高な価格まで株式や不動産が買い上げられたのは、当時、経済合理性に基づいて価格を評価する手法があまり普及しておらず、価格が「上がるから買う」という投資行動が問題視されなかったためである。加えて、プラザ合意によって円高が進行、景気が回復する中でも物価が上がらなかったため、緩和的な金融政策が必要以上に続けられたことも、バブル形成を後押しした。

 そうした観点で見れば、バブルの崩壊に始まる平成の時代は、資産の価値評価において、それまでのバブル発生リスクを包含した価格形成メカニズムから脱却し、株価で言えば企業業績やバランスシートとの比較で、不動産価格で言えば賃料収入や流動性といった経済合理性に基づいた価格形成に移行した時代だと言える。そうした健全な資産市場への脱皮が、その後のバブル発生を防ぎ、リーマン・ショックの直接的なダメージを極小化したわけであるが、その過程では長期に渡ってデフレ圧力を強める大幅な資産価格の調整を強いられたことになり、市場経済の成熟化に対する代償は小さくはなかった。

積み上げられた安売りの缶ビール箱。「価格破壊」が流行語になった=1994年6月

価格破壊や米国流経営礼賛の誤解

 デフレが深刻化したもう一つの原因として、物価下落に対する短絡的な賛美を指摘したい。バブル崩壊後の経済立て直し期において、その原動力として当時もてはやされたのは「価格破壊」という行動である。その原点は、低価格路線で成長する大型小売チェーンを描いた小説であり、非合理的な商習慣の是正や生産・流通過程の見直しによりコストを抑制、それを原資に販売価格を引き下げることで他店に対する競争力を高めるという内容だった。これを日本経済全体に置き換えると、規制緩和や効率化によって生産性を高め、経済成長を実現しようという、それだけをとってみれば至極真っ当なものである。

 しかしながら、本質的な目的である生産性の向上よりも、副次的な結果に過ぎない価格下落にのみ注目が集まったため、品質を落とし価格を下げる「安かろう悪かろう」の横行を許した。最終的に、価格引き下げだけを求めた企業の多くは自滅することになるが、こうした動きが広がったのは、所得環境の悪化により、低価格の粗悪品を受け入れざるを得ない消費者が増加したことも一因であろう。厚生労働省の統計によると、サラリーマン一人当たりの平均賃金は、平成10年度に前年比で初めてマイナスとなり、以降、15年間に渡って低下傾向が続いた。その内容も、当初は残業代やボーナスの削減が中心であったが、非正規雇用へのシフト、さらには基本給の引き下げ、すなわち「賃下げ」までが当然のように行われるようになった。そして、その動きを増長したのが、当時礼賛された「米国流経営」の誤った理解だと思う。「リストラ=人件費カット」という安直な考え方、いわば経営上の無策が、賃金引き下げを正当化していたのではないか。賃金よりも雇用を優先する「ワーク・シェアリング」という考え方もあったが、一部だったように思う。

 デフレという面から平成時代を評すれば、バブル崩壊からの救世主と持ち上げられた「価格破壊」が行き過ぎ、物価の下方硬直性を支えていた賃金上昇という防波堤をも破壊してしまった結果、真正デフレに突入、日本経済の「質」が徐々に切り下がっていったのではないだろうか。

変わる労働市場の構造

 「デフレ」とともに平成を象徴する経済事象として挙げられるのは、深刻な「人手不足」であろう。最近の雇用関連指標を見ると、失業率が9月に平成4年以来の2.3%まで低下するなど、労働需給は平成初期と同程度まで逼迫している。このように、平成は初期と末期がともに空前の人手不足状態であるものの、その背景にある労働市場の状況は大きく異なっている。

 平成当初は、バブル景気を背景に労働需給が逼迫する中で、その勢いのまま将来に渡って雇用が拡大、一方で少子化の影響により労働力は頭打ちすると見込まれていた。そのため、深刻な人手不足時代の到来への懸念が強まり、終身雇用が原則という環境下で、雇用の確保を急いだ大手企業が新規学卒者を大量に抱え込み始めた。ところが、その後のバブル崩壊で労働需要の方が先に頭打ちしたため、積極的に雇用を拡大した企業は一転して過剰雇用を抱えることになり、早期退職募集や賃下げ、新卒採用の抑制などにより労働市場は急速に冷え込んだ。すなわち、平成初期の人手不足は懸念先行の面が強い。

 そして、これに懲りた企業は、景気変動に対する雇用の流動性を高めるため、正規雇用から非正規雇用へのシフトを加速、正規雇用についても賃金の上昇を抑えるため年功賃金の見直しを進めた。その結果、常用雇用(1年以上の継続雇用)に占めるパートタイムの比率は、平成2年の13%程度から29年には30%程度まで上昇した。また、賃金の抑制は先述の通りデフレを深化させたのみならず、将来の所得増加への期待を押し下げることで個人消費を委縮させることにもつながった。

東京・日比谷公園にできた「年越し派遣村」には多くの労働者が集まった=2008年12月31日

失われた「1億総中流」

 これに対して、最近の人手不足は、

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