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エコノミストが懸念する統計不正の切実な問題点

重要だがどこかあやしかった毎月勤労調査にメス。統計の立て直しに向けた建設的議論を

武田淳 伊藤忠総研チーフエコノミスト

衆院予算委で答弁する総務省統計委員会の西村清彦委員長=2019年2月13日衆院予算委で答弁する総務省統計委員会の西村清彦委員長=2019年2月13日

「注目すべき経済指標」の毎月勤労統計が……

 昨年の暮れ、新年の経済展望に関するアンケートの中に、「注目すべき経済指標」という問いがあった。回答として私は、昨今世間を騒がせている厚生労働省の「毎月勤労統計」を挙げた。

 もちろん、その段階では、今や一大政治問題に発展した統計不正について指摘したかったわけではなかった。毎月勤労統計が賃金や雇用の状況を示すものであり、賃金の動向こそが、今年も景気拡大が続くかどうかのカギを握っていたためである。

 そうした筆者の意とは関係なく、この統計の名前がメディアを通じて広く知られることになった経緯や問題点は、厚生労働省が1月11日発表した「毎月勤労統計調査において全数調査するとしていたところを一部抽出調査で行っていたことについて」という口語調の長いタイトルを冠した資料に詳しく記載されている。以下、要点を整理する。

規定に反した調査方法が13年間続く

 厚労省は2004年から2017年までの13年間、規定に反した調査方法を続けていた。具体的には、調査対象のうち、比較的大きな事業所(500人以上規模)の調査について「全数調査」とすべきところを、東京都だけサンプル調査(抽出調査)としていた。2018年10月分について言うと、従業員500人以上の事業所は1464あったが、そのうち調査したのは約3分の1の491事業所であった。それでも、全体像を把握するに足るということであれば問題はないが、実際には過小推計であったようである。

 データの処理方法にも問題があった。上記の通り、東京都のデータは全体の3分の1をサンプルとして調査したが、全国の数字を集計する際には実態の数に「復元」、つまり3倍にする処理をすべきところを、しなかった。東京の賃金水準は全国平均より高いが、東京の事業所の数を実際の3分の1として集計したことで、全国平均の賃金は実態より低くなってしまった。

 そのほか、東京都の「499人以下規模の事業所」についても、2009年以降のデータが正しく「復元」されずに集計されていたことも発覚するなど、かなり杜撰(ずさん)な状況が長期間続いていたことが明らかとなった。

きっかけは統計委員会・西村委員長の指摘

 こうした事実をメディアが初めて報じたのは、昨年暮れの朝日新聞だった。12月28日夕刊で「勤労統計 全数調査怠る 厚労省 都内は約1/3を抽出 GDPにも影響か」と伝えた。年が明け、1月8日の閣議後に行われた記者会見で、根本厚生労働大臣が不適切な調査が実施されていたことを認めると、あらゆるメディアが一斉に報道するに至る。

 ただ、統計不正が明らかになるきっかけは、昨年12月13日に開かれた総務省統計委員会での西村清彦委員長からの指摘で、同20日には不適切な調査が行われていた事実が厚生労働省の事務方から根本大臣に報告されている。その間、事実関係の確認や対応方針の検討などが行われたのであろうが、毎月勤労統計は12月21日に10月分の確報値が発表されており、そうした不誠実さも批判の対象となった。

使うことが減った毎月勤労統計

記者会見する根本匠厚労相=2019年1月11日、東京・霞が関記者会見する根本匠厚労相=2019年1月11日、東京・霞が関
 実は、以前からエコノミストの間では、定例のサンプルの入れ替えがあった2018年1月分以降、前年同月比の伸びが高過ぎるのではないかという指摘がなされていた。通常、サンプル入れ替えなどによって統計の連続性が失われる場合、ギャップが修正されることが多いが、今回はどういうわけか修正されず、春闘賃上げ率などと比較して違和感があったからだ。

 こうした観点からの指摘は18年8月の統計委員会でもあり、9月の委員会では賃金変化率は「共通事業所」を重視すること、つまり前年と同じ事業所だけを対象とした変化率が望ましいことを確認。サンプル入れ替えの影響についての説明が不十分だとして、適切な対応を厚生労働省に求めている。

 さらに内閣府は11月、毎月勤労統計を用いて作成する雇用者報酬(全雇用者が受け取る賃金の総額、GDP統計を構成する指標の一つ)について、このギャップを「2017年以前の水準を上方修正」するかたちで独自に調整し、その結果として「2018年分の前年同期比が下方修正」された。つまり、内閣府は厚生労働省が発表する数字をそのまま使うことを拒否したわけである。

 筆者自身もこの半年あまり、景気の情勢判断に毎月勤労統計を使うことが少なくなっていた。

政府の景気判断への影響を懸念

 不正発覚は多方面に影響を与えた。すでに報じられている通り、毎月勤労統計を用いて支給額が計算される雇用保険や労災保険は、統計の示す賃金水準が実際よりも低かったため、延べ約2000万人分、総額600億円近い追加給付が必要となり、昨年12月に閣議決定済みだった来年度予算案に、事務経費を含めた約800億円を追加計上するという前代未聞の対応を迫られた。公務員給与についても、今回の毎月勤労統計の修正に伴って見直しの可能性が指摘されている。他にも民間の賃金水準を参考に決められているものは数多いとみられる。

 景気の現状判断への影響も気掛かりだ。経済統計は景気の実態把握に不可欠なものである。それだけに精度の良しあしは、経済情勢の変化に対して最適な対応をとろうとする企業や政府、場合によっては消費者の行動にも誤った影響を与え、景気を不安定化する要因となる。

 なかでも賃金は、企業の業績改善が家計所得を押し上げ、個人消費など需要の拡大につながり、さらに企業業績を押し上げるという「景気の自律的な回復」において、企業と家計との間をつなぐ「要」にあたる。その重要なバロメーターたる賃金統計が正確性を欠けば、政府は景気の現状判断を誤り、景気の失速を見過ごす、あるいは逆に過剰な対策を打ち出すことにもなりかねない。

統計数字を歪めようとする意図はあったのか

厚生労働省=東京・霞が関厚生労働省=東京・霞が関
 事ほどさように幅広い影響が懸念されることもあって、統計不正問題をめぐる議論は、その経緯や対応の遅れに対する批判からはじまり、最近では安倍晋三政権の経済政策の効果を疑う「アベノミクス偽装」論にまで及んでいる。以下では、こうした様々な論点から、経済統計のヘビーユーザーであるエコノミストの観点から幾つか選び、整理してみたい。

 第一の論点は、今回の騒動の出発点である、「東京都の大規模事業所について全数調査とすべきところを、なぜサンプル調査にしたのか」だろう。厚生労働省は、調査対象の削減を、東京だけでなく大阪などにも広げる方針であったことが確認されている。つまり、何らかの事情で作業の簡素化を図っていたと考えるのが自然であり、意図的に統計の数字を歪(ゆが)めようとしたとは考え難い。

 とすれば、調査対象を削減しても、統計の精度が維持できるという検証は当然、していたはずである。無益な議論をなくすためにも、どういう検証をしていたのか、結果も含めて公表を求めたいところである。

厚生労働省の対応はなぜ遅れたのか

 第二に、なぜ厚生労働省の対応が遅れたのかという点である。先に述べた通り、統計ユーザーなど多くの関係者は、昨年の早い段階で毎月勤労統計の公表値に違和感を持っていた。にもかかわらず、統計を作成し発表する側の厚生労働省がまったく気付かなったはずはない。

 単に現場からの報告がなく、調査の管理責任者は知る術がなかっただけなのか。それとも、組織としてしかるべき対応をとった後に、公表するつもりだったのか。何らか外部への影響に配慮したのか……。原因はいろいろと考えられるが、いずれにしても経済実態を正確に把握できない空白期間を作った責任は大きい。

「アベノミクス」の偽装なのか

 第三に、これはアベノミクスの偽装なのか、という点である。第一印象では、最終的に賃金水準が上方修正された点を踏まえると、その動機は弱いように思える。

William Potter/shutterstockWilliam Potter/shutterstock
 先日、発表された2018年の実質賃金(物価上昇の影響を考慮した賃金)は、本来の方法に近付ける処理をした「再集計ベース」で前年比+0.2%だとされたが、野党の一部は前年と比較できる事業所のみを調査対象とした「共通事業所ベース」の前年比▲0.4%が正当と主張。賃金は上がっていないとして、アベノミクスの成果を否定している。しかしながら、その程度の正当性であれば、統計処理を施した「再集計ベース」にもあり、一方で「共通事業所ベース」には調査対象が少なくなるという欠点もあるため、五十歩百歩といったところであろう。

 いずれにせよ、2018年の消費者物価は原油価格の上昇で0.5%ほど押し上げられており、この政権の努力ではいかんともし難い分を除けば、野党の試算でも実質賃金は上昇したことになる。そもそも雇用が拡大しているため、総人件費(雇用者報酬)で見れば実質でも明確なプラスであり、景気の自律的な回復に必要な、企業から家計への所得の移転はマクロ的に見れば実現している。そう考えると、アベノミクスの成果を「偽装」したとまでは言えず、せいぜい「化粧」程度の話であろう。

国の舵取りに必要な情報の正確性が損なわれた

 以上の経緯や論点整理を踏まえると、

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