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英のEUからの離脱劇、混迷の謎を解く

時間がかかるのは悪いことか?

小林恭子 在英ジャーナリスト

3月21日のEU首脳会議(ブリュッセル)で、報道陣の前に立つメイ英首相(官邸フリッカーより)

 英国の欧州連合(EU)からの離脱(「ブレグジット」)はいつ実現するのか?

 3月末時点、その答えは本当にはだれにもわからない。

 3月29日に離脱することになっていたが、EUと英政府側がまとめた、離脱の条件を決める「離脱協定案」が英国・下院で2度も大差で否決され、英国を除くEU27カ国は21日のEU首脳会議で交渉期間の延長という決定を下したからだ。もし先の協定案が可決されれば、離脱日は5月22日、否決されれば4月12日が運命の日となる。

 延長決定前、メイ英首相は否決された協定案を「三度目の正直」でまたも採決に出そうとしたが、下院議長に「実質的に同じ動議を同じ会期中に出すことはできない」とくぎを刺され、いったんはひっこめた。それでも、あきらめたわけではない。延長を認められたのでこれを踏まえて新たに採決に出す予定。しかし、現時点では支持者が少なすぎ、出すに出せない状況だ。

 しかし、メイ首相が3月27日夕(日本時間28日)、「協定案を可決させることができたら、辞任する用意がある」と述べたことで、事態はさらに不透明感を増している。

 一方、行き詰まり状態打開のため、下院議員らは政府案に変わる代案づくりに向かっている。政府は下院がどのような代案を出そうとも、「その結果に従う必要はない」(メイ首相)と強気の発言をしているが、離脱交渉で「下院が主導権を握った」異常な状況で、メイ首相の指導力低下を最も明確に示したと言えよう。

 いったいなぜ、このような状況に陥ったのか? なぜ英国は「決められない」のか? 英国在住者の一人として、決してきれいごとではない現状をじっくりと説明してみたい。

思いがけない離脱派の勝利

 まず、なぜ英国がEUからの離脱を決定したのかを改めて振り返ると、具体的には2016年6月の国民投票の結果による。

 もともと、英国にとって「欧州」とは「欧州大陸」を指し、「よその国」である。地政学的に英国は欧州に入るのだが、意識的には自分たちは中に入っていない。

 第2次大戦後、ドイツとフランスを中心にした欧州統合の動きから、英国は一歩引いた位置を保っており、1973年に、経済的利点から欧州共同体(EC)に入ったものの、EUの統一通貨ユーロは導入せず、域内で国境検査なしで行き来ができるシェンゲン協定にも入っていない。

 国民投票が行われる直前、2004年以降にEUに新規加盟した旧東欧諸国からの移民が雇用、教育、医療分野で英国民に圧迫感を与えるようになっていた。2011-12年のユーロ危機では、英国は非ユーロ国であるのに財政支援を提供するよう求められたことも国民の反感を買った。

 元々ある、欧州大陸の国に対する「よその国」という意識、かつての大英帝国の記憶、EUを官僚主義の権化と見て忌み嫌う感情、新EU移民による雇用・生活面での圧迫感・・・こうした要素を政治的気運として一つにまとめ、国民投票の実施にまで持ち込んだのは、英国のEUからの脱退を目指してきた英国独立党(UKIP)だった。

 2016年6月23日の国民投票は、僅差で残留派が勝つだろうと思われていたが、予想外に離脱派が勝った。残留運動を率いていたキャメロン首相は辞任を表明し、後を継いだのが現在のメイ首相である。

準備が整う前に、離脱のための第50条発動

議事堂前の残留派のプラカード。「ブレグジットのめちゃくちゃを止めろ」(左)、「ブレグジット―貧しくなりたくて投票した人はいない」(右)(3月12日、筆者撮影)
 メイ政権発足時、政府は今後の離脱交渉について何の指針もない状況に置かれた。UKIPの党首で国民投票の実現に力を発揮したナイジェル・ファラージ氏が党首の職を降り、離脱に向けた国内政治の動向から身を引いた(ただし、欧州議会議員の職は維持)。離脱運動を主導した政治家(保守党)ボリス・ジョンソン氏は平議員で、メイ氏のそばにはいなかった。メイ氏自身が残留派で、キャメロン首相とともに残留キャンペーンを行ってきたので、離脱をどう進めるかの持論は持っていなかった。

 メイ氏は離脱の実行を首相としての使命と肝に銘じ、「ブレグジットを何としてもやり遂げる」と宣言し、党内の強硬離脱派を取り込むために、「EUの関税同盟からも、単一市場からも出る」と述べるようになった。内閣にはジョンソン氏を含む離脱派数人を入れたものの、離脱派と残留派の真っ二つに割れた国民をどうまとめるべきなのか、誰もその答えを知らなかった。

 「EUなき英国」のあるべき姿を構築するには、政府が国民に意見を募ったり、言論の場で議論がなされたり、必要な法律を立法化したりなどの過程が必要で、これには時間がかかる。

 メイ政権には離脱後の英国像のコンセンサスを作る余裕はなかった。「早く方針を決めろ」、「一体政府は何をやっているのか」とメディア及び保守党内離脱強硬派が連日突き上げた。

 2017年3月、国民投票から9カ月後、メイ首相はEUの基本条約の中で離脱を規定する第50条を発動した。これによって、2年以内に英国はEUから離脱することになった。しかし、この時も「まだ準備はできていなかった」という(首相の元側近の談話、BBCラジオ4の番組「ブレグジット首相」、3月11日放送分から)。

幻想に惑わされて

 実は筆者も、当時、「一体なぜ数カ月も時間がかかるのか」と焦燥を感じた。

 今から思えばだが、本当は、そのように考える必要はなかった。「EUからの離脱手続きには相当の時間がかかる」、「時間がかかって当たり前だ」、「今後の関係を国民みんなで考えよう」という呼びかけがあればよかったのだが、「離脱なんて、あっという間にできる」、「英国はEUにとって重要なのだから、相手の方からすり寄ってくるはず」という離脱派閣僚の言動に惑わされていた。

 2年間という期限付きで、英国とEUの離脱交渉が始まった。実質的に十分とはいいがたい準備をして交渉に臨んだ英国側とは正反対に、英国を除くEU27カ国側は準備万端だった。

 まず、離脱条件を決める第1段階があり、この段階で十分な進展があったとEU側が判断したときにはじめて、第2段階として将来の通商関係についての議論を始めるという「2段階交渉案」への合意を英国に求めてきた。「将来の通商関係」こそ、英政府が最初に取り掛かりたい分野だったが、EU側は頑として耳を貸さなかった。最終的に、EU側の決定通りに交渉が進むことになる。離脱に際してのいわゆる「清算金」の支払いも、英政府側は「まったく払う必要はない」、「何とか(払わないように)するよ」と主要閣僚に何度も発言させ、国民に幻想を与え続けた。

口を封じられた議会

 現在の議会の迷走を見て、「一体、野党は今まで何をやってきたのか」と国外に住む方は思われるだろう。

 しかし、今年1月、メイ首相があらかじめEU側と合意した離脱協定案を下院に採決に出すまで、国民もそして野党議員も「離脱後、EUと英国はどのような関係にあるべきか」を決める過程から締め出されてきた。

 まず、先の第50条の発動に至る過程で、

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