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進化する調査報道の最前線

「マルチなプラットフォーム」を通じて全米に発信、アニメや演劇も

松本一弥 朝日新聞夕刊企画編集長、Journalist

「機密性の高い仕事。お母さんにも内緒だよ」

米国のNPOメディア「調査報道センター」の外観=米国カリフォルニア州エメリービル米国のNPOメディア「調査報道センター」の外観=米国カリフォルニア州エメリービル

 米国で最も歴史が古いNPOメディア「調査報道センター」(CIR、The Center For Investigative Reporting)は、米国カリフォルニア州エメリービルにある。

 1977年の設立以来、数々のスクープでその地歩を高め、調査報道の一大拠点として米国のジャーナリズム界で存在感を高めてきた。現在は自ら調査したコンテンツやニュースを既存のラジオやテレビ、活字媒体、インターネットだけでなく、スマートフォンなどにダウンロードすればいつでも聞ける「ポッドキャスト」など「マルチなプラットフォーム」を通じて全米中に幅広く発信、時にはアニメや演劇の表現手法も使うなどして自在に多面展開している。モットーは「コラボレーション」(協働)。ニュースを届けたい相手の属性などに応じて様々な媒体を使い分けながら発信力を最大化する。

 そんなCIRのエグゼクティブ・ディレクター、ロバート・ロゼンタール(70)は、ジャーナリストとしての長いキャリアをニューヨーク・タイムズの編集助手から始めた。

 ロゼンタールは語る。

 「1970年、大学を出てすぐにニューヨーク・タイムズに勤めました。最初の仕事はコピーボーイです。ところがある日呼ばれて、『ニューヨーク・ヒルトンホテルに行け』といわれたのです。『そこでは非常に機密性の高い仕事をやってもらう。そのことは君の母さんにも内緒だよ』。そんな指示でした」

 ニューヨーク・タイムズは1971年、米国がベトナム戦争の泥沼にはまり込んでいく過程で歴代の米政権が国民にひた隠しにしていた内容が書かれた「ペンタゴン・ペーパーズ」(米国防総省秘密報告書)を入手してスクープ、当時のニクソン政権と真っ向から対立した。ニクソン政権は記事掲載をやめさせようとニューヨーク・タイムズを提訴。下級審の命令でいったんは連載が止まったものの、最高裁で政府側が敗訴して連載は再開された。

 政府との戦いにはワシントン・ポストや他のメディアも「国家の安全を脅かし回復不能な危害を及ぼす」との大統領声明を事実上無視して相次いで参戦。米国の「負の歴史」が書かれた秘密文書を掲載することで「国民の知るべき情報」が守られたとして知られる。

 ニューヨーク・タイムズなどに秘密文書を暴露した当のダニエル・エルズバーグは「いろいろなことを知るにつれ、投獄の危険を冒すのは当然のことと思えました。私になすりつけられた罪状によって処刑されることもありえると覚悟しました。真実を知った以上、戦争の終結を早めることは十分な価値があると思いました」と語っている(注1)。

 一連の過程はその後、スティーブン・スピルバーグ監督が映画「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」として作品化。ニューヨーク・タイムズにスクープを抜かれて必死に追いかけるワシントン・ポストの立場から当時の状況を生き生きと再現し、再び注目を集めた。

「ペンタゴン・ペーパーズ調査報道チーム」の編集助手として

「調査報道センター」のエグゼクティブ・ディレクター、ロバート・ロゼンタール。手に持っているのは「ペンタゴン・ペーパーズ」をスクープした1971年6月13日付の「ニューヨーク・タイムズ」の紙面=米国カリフォルニア州エメリービルの「調査報道センター」「調査報道センター」のエグゼクティブ・ディレクター、ロバート・ロゼンタール。手に持っているのは「ペンタゴン・ペーパーズ」をスクープした1971年6月13日付の「ニューヨーク・タイムズ」の紙面=米国カリフォルニア州エメリービルの「調査報道センター」

 当時の状況や舞台裏を克明につづった元ニューヨーク・タイムズのハリソン・ソールズベリーが書いた「メディアの戦場 ニューヨーク・タイムズと記者ニール・シーハンたちの物語」によると、「ペンタゴン・ペーパーズ」をスクープしたニール・シーハンはニューヨーク・ヒルトンホテルの1106号室にこもって記事を執筆、集められた少人数のスタッフは13階で仕事をしたという。

 ソールズベリーはこう書いている。

 「文書を保管するために、大型金庫が三つスイートルームに届けられた。下書き原稿と用済みのメモ類は、ショッピング・バッグに入れられてタイムズ社にもどされた。記者たちが〝分別ゴミ〟と呼んだそれはシュレッダーにかけられるのだ。(中略)シュレッダーにかけられた資料は、十一階にある社員食堂が閉められた深夜にそこに運ばれ、ゴミ処理機にぶちこまれた」(注2)

 一方、ロゼンタールの当時のミッションは、ニューヨーク・タイムズがスクープを掲載するべく極秘に作業をしていたこの「ペンタゴン・ペーパーズ調査報道チーム」の編集助手として働くことだった。

 ロゼンタールはいう。

 「『トップシークレット』だという何千枚ものドキュメントをホテルに持ち込んで作業をしました。なぜニューヨーク・ヒルトンホテルのような場所を作業場として選んだかというと、ほかにも一般のお客さんがたくさん滞在しているので一番まぎれて目立たないんじゃないかとニューヨーク・タイムズが考えたからです。政府や警察、政府関係の調査当局の目を逃れるためでした」

大量のコピーの束と一緒に寝泊まりする日々

 「何しろ私は一番の若手でしたから、ひたすらコピーをとるのが仕事でした。そのものすごい量のコピーを保管しておくための棚がホテルにはあったのですが、早い話、当時の私はコピーの束と一緒に寝泊まりしていたようなものだった」

 ジャーナリズム史上に残る世界的な大スクープに入社早々かかわることができたロゼンタールだが、ニューヨーク・タイムズでは若いうちからいろいろなことを体験的に学ぶことができたという。

 「一つは、メディアというものの役割と民主主義の重要性。二つ目は、メディアは政府という大きな権力に立ち向かうのだということ。三つ目は、ジャーナリストたるもの、危険を冒してでもやらなければいけないことがあるということです。こういう仕事をやっていると、いつ何時FBI(米連邦捜査局)がドアをたたいてきて逮捕されるかもしれない。そうした危険と常に隣り合わせで仕事をしていました」

 締め切りに追われ、早朝から深夜まで張りつめた緊張感の中で文字通り命を削るような日々が続いた。「夜の10時ごろになってやっとチームの仲間と食事をする時間がとれるのですが、そのテーブルで、先輩の記者たちは私みたいな若造にいろいろ質問をしてくるのです。そんなやりとりからも私は多くを学びました。ジャーナリストにとっては年齢やキャリアの長短など問題じゃないとか、やっぱりお互いを大事にしなければいけないよとか。濃密な人間関係の中から学んでいきましたね」

「働いている一人ひとりがすごく大事」

「調査報道センター」のエグゼクティブ・ディレクター、ロバート・ロゼンタール=米国カリフォルニア州エメリービル「調査報道センター」のエグゼクティブ・ディレクター、ロバート・ロゼンタール=米国カリフォルニア州エメリービル

 ロゼンタールはその後ニューヨーク・タイムズを辞め、地方紙のボストン・グローブに転職。さらにその後フィラデルフィア・インクワイアラーに移って22年間勤め、アフリカ特派員や国際報道部長を経て編集トップにまで昇進した。その過程でニューヨーク・タイムズで体得した経験が生きたという。

 「リーダーとしての仕事につくにあたり、働いているメンバー一人ひとりがみんなすごく大事なんだ、それぞれが重要な役割を持っているんだということにいつも留意しました。それをお互いに認識し合うことが、グループとしての活動を続ける上ではすごく重要なのです。私はそれをこれまでずっと実践してきたつもりです」

 だが、フィラデルフィア・インクワイアラー在籍中にインターネット時代が到来。同社はその新しい波にうまく乗れず、人員削減を繰り返すようになったため、ロゼンタールは幹部への不満がたまり、2001年には自分が解雇されるという憂き目も味わった。その後はサンフランシスコ・クロニクルで編集局長を務め、2008年にCIRの事務局長に就任した。

 「当時はスポンサーがいるようなひもつきのメディア企業で働くことにもう辟易(へきえき)していて、もっと何か新しい経営形態のもとで調査報道をうまく展開できないかと考えるようになっていました」とロゼンタール。

 「インターネットが壊したものは何かを改めて考えてみると、要は報道する側のニュースルームにいる人間と経営者の間の微妙なバランスでした。ニュースルームの中にいる人々はとにかくいいニュースを提供したい、そのためにはリスクを冒してでも頑張りたいと考える。一方の経営者側は、きちんと収入を確保して利益を出したいと考える。この二つの人々の考えがまったくかみ合わなくなってしまったのです」

文字や映像だけでなくアニメや劇でも表現する

米国のNPOメディア「調査報道センター」の内部。ラジオ番組を作成したり、映像や演劇、アニメを作るための打ち合わせをしたりと「マルチなプラットフォーム」を使って多面展開している=米国カリフォルニア州エメリービル米国のNPOメディア「調査報道センター」の内部。ラジオ番組を作成したり、映像や演劇、アニメを作るための打ち合わせをしたりと「マルチなプラットフォーム」を使って多面展開している=米国カリフォルニア州エメリービル

 ロゼンタールが新天地のCIRで実現しようと考えた「新しいジャーナリズムのモデル」。それを説明する際、ロゼンタールは「車輪をイメージしてほしい」という。

 「車輪の真ん中には『ストーリー』があります。その真ん中からタイヤを支えるスポーク(棒)が何本も出ていますよね。昔はこのスポークの一本が『文字媒体』で、もう一本が『映像』でした。でも新しい時代にはスポークをもっとたくさん増やしてトータルに多角的に伝えていきたい。テクノロジーが進化すればするほどスポークの数をどんどん増やしていきたいんです」

 調査報道に長年取り組んできたジャーナリストにしては、調査報道をめぐる固定的な考えや枠組みを自由に取り払って新たな道を模索するという点において、ロゼンタールの考えは極めて柔軟だ。

 「例えば、ニュースを受け取る対象が子どもだったとしたらどうでしょうか。そのストーリーの内容をアニメで表現してみようとか、あるいはストーリーを使って劇を上演してみようとか。ニュースの様々な受け手にとって一番理解しやすい形の媒体にストーリーを乗せて発信していく。そんなことにチャレンジしてみたかったのです」

 既成のメディアではできなかった挑戦に胸が高鳴ったが、その一方でこんな思いも味わった。

 「私はそれまで大所帯の名の知れたメディア企業を渡り歩いてきましたが、CIRに移った当初、自分以外にはわずか6人のスタッフしかいませんでした。『事件が起きたぞ』と意気込んで立ち上がってあたりを見渡しても、人がいない。そこで『うーん、何もすることがないな』と思わず脱力して座わりこんでしまう、そんな感じでCIRでの日々は始まりました」

リーマンショックのさなか、資金集めは大変だった

 ロゼンタールがCIRに移った2008年当時はリーマンショックのさなかで、ものすごい不況が米国を襲い、資金集めにも非常に苦労したという。はたして調査報道をめぐる「新たなビジネスモデル」はどうしたら構築できるのか。難問を前に、ロゼンタールは考えた。

 「まずはしっかりとした土壌を築かなければいけない。そしてその土台の上に『社会的正義を追求するのがジャーナリズムだ』という柱をしっかり立てなければならないと思いました。ふつうのビジネスだったら『いくら投資してくれれば見返りはいくらになります』ということになるのですが、私たちの場合は何しろ非営利のジャーナリズム団体です。社会の腐敗や問題を白日のもとにさらけ出して、その帰結として『世の中が少しはよくなりました』ということを見ていただく必要がある」

 同時に、CIRに投資してくれる人たちの期待に応えるためには「これまでジャーナリズムがやってこなかったこと」にも果敢にチャレンジする必要があったという。

 「過去に誰も手をつけていない分野にもどんどん積極的に挑戦していって結果を出すということが必要でした。その一環として、ファクトを子どもたちに伝えるために劇をしたり、映画やアニメをつくったりもしたのです」

 ロゼンタールの挑戦は劇を上演しただけでは終わらなかった。

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