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転職・起業の先にある障がい者の働き方改革

背中を押した「転職は絶頂期にするもの」「人のせいにするなら自分でやったら」

岩崎賢一 朝日新聞社 メディアデザインセンター エディター兼プランナー

 障がいのある子どもが生まれたり、子どもに大きな病気が見つかったりしたとき、自分のキャリアプランをあきらめてしまう親は少なくない。しかし、大阪市で「株式会社シーアイ・パートナーズ」を経営する家住教志さん(37)は違う道を選んだ。

 子どもの療育や治療に深く関わるうちに、「あったらいいな」が見えてきた家住さんは、知識と経験不足を補うため、転職して大手企業人事部の障がい者雇用担当となり、3年後に起業。背中を押した言葉は、ある経営者から言われた「転職は勤めていた企業と自身の評価が絶頂期にするもの。傾いてからでの転職では外の企業が評価してくれません」と、障がい者支援団体の代表に言われた「人のせいにするなら自分でやったら……。社会のせいにしないで」だった。

交換留学生のロシア人学生と学生結婚

ライフシフト婚姻届を提出した直後の家住さん夫妻。2人はこのとき大学4年生だった=家住さん提供
 大阪市の住宅街に家住さんの会社がある。「放課後等デイサービス」などの制度を利用し、障がい児の低負担で就活のためのスキルアップを指導したり、B型作業所を経営してマンション清掃業務を請け負ったりしている。役員と従業員で37人おり、大阪市内5カ所で施設を運営し、約160人が利用している。

 事務室でインタビューを始め、学生時代のキャリアプランについて質問すると、恥ずかしそうに視線をずらした。電話を受けるロシア人の妻、ミチュコヴァ・アナスタシアさん(33)がいたからだった。

 2007年4月、家住さんが宇都宮大学国際学部の4年のとき、ロシアのイルクーツクから半年間の交換留学で来たミチュコヴァさんと、留学生パーティーで出会った。

 「最初から『付き合おう』ではなく、『結婚しよう』と言いました」

 大学4年の2月、日本で結婚式を挙げた。彼女はロシアの大学を卒業した2008年6月に再び来日し、家住さんの職場がある東京近郊で暮らすようになった。このとき、家住さんは25歳だった。

「ふらふらしていた」高卒後のモラトリアム期

 実は家住さん、高校を卒業してから2年ぐらい「ふらふらしていた」というモラトリアムの期間があった。

 「自分の未来を決めるためのふらふらですね。アルバイトをして、勉強したくなれば勉強すればいいと思っていたので……。でも、それって逃避行動ですね」

 「私が生まれ育った群馬県桐生市というところは、アパレルショップや美容室などがたくさんあって、そういうところで働く人たちがかっこいいなと思っていました」

 東京都内の専門学校で、アパレルや国際ビジネスを2年間学んだ。しかし、その後に宇都宮大学国際学部の3年次編入試験を受けたのはなぜか。

 「親族は大手企業や医者、企業経営者が多かったんですね。父親も建築会社を経営していました。私は技術を学ぶ勉強なら集中できたと思うのですが、学問のための学問をすることは嫌でした。それで専門学校に行き、外国語とファッションを学び、国際的なバイヤーになることを目指していました。高校時の夢ですね。充実して楽しくて、いろいろな資格も取得しました。そんな中で意気揚々と就職活動してみると、大卒が募集要件になっていて面接さえ受けられませんでした。腹が立ったんで、宇都宮大学の編入試験を受験しました」

 フリーター→専門学校生→大学編入→学生結婚・国際結婚→就職。

 ミチュコヴァさんのキャリアプランも大きく左右する。そのことについて直接尋ねてみると、こう答えた。

ライフシフト学生時代に初めて訪れたロシア=家住さん提供
 「ロシアでは卒業してから就職活動するのは普通です。日本とスタイルが違うので、自分の就活やキャリアについては心配していませんでした」

 「英語、フランス語、日本語ができたので、言語に関係がある仕事がしたかった。できれば、日本とロシアに関係する会社に入りたいと思っていました」

 結婚してまもなくして妊娠がわかり、キャリアのスタートは子どもが1歳3カ月になったときにパートタイムで始めた語学学校のロシア語講師。今は、夫の会社を手伝うとともに、神戸外国語大学と京都外国語大学で非常勤講師をしている。

就職して半年もたたずにリーマンショック

 家住さん夫婦の新卒での就職、結婚、出産を振り返ると、2008年9月に大手投資会社リーマン・ブラザーズが経営破たんし、世界的な経済危機が起きている時期と重なる。

 「上場企業だった東京のアパレルメーカーに就職したが、子どもが生まれる前の2009年3月で会社は辞めました。営業を担当していましたが、『営業をするな』と言われました。売れば売るほど赤字が増えるからです。売らないで顧客とは関係を維持しろと言われました。リストラはせず、給料も上がらない。最低限の売り上げは維持して赤字にならないようにするから、バリバリ働かないでくれということです。すごく違和感がありましたね」

 入社して半年でリーマンショックが起こり、転職を考えた。周囲は「子どもが生まれるのに、仕事を辞めるなんて」と大ブーイング。

 甘くはなかった。

ライフシフト洋菓子メーカー時代=家住さん
 就職氷河期なので、6月まで決まらなかった。ある日、東京都内で開かれた20社ほど集まった合同面接会。全社を回り、最後までいたところ、群馬県に本社がある洋菓子メーカー「ガトーフェスタ ハラダ」の役員の目にとまった。

 「あいつは根性あるな」

 関西に初進出をするための人材を探していたところだった。

 5月に子どもが生まれ、6月に就職、8月に大阪に転勤した。本社が群馬県にあるので、ゆくゆくは地元に帰ろうかなと考えていた。

 そんな家住さんが、なぜ、ライフシフトを考え、障がい者雇用を軸に転職や起業を繰り返していくことになったのだろうか。

障がいを持つ娘が将来働けるのか不安だった

――大阪出身でない家住さんご夫婦がなぜ、大阪で起業したのでしょうか。その転機を教えてください。

 洋菓子メーカーで仕事をしながら、子どもの障がいに向き合い、訓練や施設などについて調べていました。子どもが将来何に困るのかと考えたとき、働けるのかということが不安になりました。

 それなら、私が障がい者を雇用する側に回って、つまり転職して障がい者雇用をする側から自ら学んでいった方がいいと思いました。それで株式会社あきんどスシローという回転ずしチェーンを運営する会社に転職し、人事部の障がい者雇用担当になりました。

 将来的には、施設を経営していくというビジョンを持っての転職です。すでに経営者の勉強会にも参加していました。

ライフシフト幼いときの長女=家住さん提供
――お子さんはどのような障がいを持ち、どの時点で気づいたのですか。

 娘は聴覚障がいです。生まれて1カ月後にわかりました。妻は1週間ほどして「この子耳が聞こえていない」と言ったんですね。私は「そんなことない」と1カ月言い続けましたが、「やっぱり聞こえていない」というので検査したら聴覚障がいでした。

――リーマンショックに、障がい児の療育、そして国際結婚したロシア人の妻と慣れない地での生活……。不安はありませんでしたか。

 妻には「日本ならどこでも一緒」と言われました。異国なので。

「人のせいにするなら自分でやったら。社会のせいにしないで」

――2回目の転職は、1回目の転職と何が違いましたか。

 子育てに関わる中で私も学び、子どもの障がいについて「もしかしてやばいのかな」と思うようになっていました。このまま一生話すことができないのか。大学進学や就職ができないのはかわいそう。このまま何もしなかったら後悔すると思うようになってきました。

 娘にどういう力をつけさせてあげればいいのか、自分にインプットが必要だと実感しました。妻が海外の文献も調べ、早い時期に人工内耳の手術を受けました。しかし、手術後に訓練が必要になります。名古屋に週1回、療育に通っていました。すると、めきめきと話せるようになってきました。

 道が一つ開けました。

 「声援隊」という団体のサポートを受け、道が開けました。しかし、大阪で十分な療育が受けられないことに不満を抱いていました。あるとき、私の不満を耳にした代表にこう言われました。

 「人のせいにするなら自分でやったら。社会のせいにしないで」

 はっと気づきました。自分でやればいいんだと。私にとって、一番の心配が障がい者が働くというステージだったので、一足先に自分で見てこようと思ってスシローの人事部に転職したのです。大阪の経営者の勉強会の中に、スシローのコンサルタントがいて紹介してもらいました。門は開くけど面接は自分の力で受かってくださいといわれましたが……。今につながるスシローへの転職は、そういった出会いも大きかったですね。

コア業務をさせてあげたいから始まった「三方良し」の実習

――スシローではどのような仕事をしてキャリアを積んでいったのですか。

 最初は店舗に配属され1カ月半、現場の勉強をしました。次に人事や教育の部署を経て、障がい者雇用、一般採用、社内の資格取得支援を担当するようになりました。その後、障がい者雇用を中心に仕事をすることになりました。障がい者雇用率は達成できていましたが、毎月少し辞めるので、毎月少し増やすということを続けていました。障がい者は当時、主に店舗での食器洗浄、仕込み補助などを担当していました。

ライフシフトあきんどスシローの人事部時代=家住さん提供
 辞めそうな人がいれば出向いて対応をサポートしているうちに、障がいへの理解も進みました。そこで、スシローのコア業務ができないかと考えるようになったのです。すしを作る人です。

 どうすればすしを作れるのか模索し始めました。大阪府内のある特別支援学校高等部の教員と話している中で着目したのが、社会で障がい者雇用に関心がある企業などの職場で行う実習の有効活用でした。実習で丁寧に教え、それを2~3年間続けていけば就職してすぐにコア業務ができるのではないかと思いつきました。

 うまくいきましたね。特別支援学校の実習は、3年間で適性を探るため、普通は色々な企業に行くと思います。スシローへの実習には、1年生のときに1回、2年生のときに2回、3年生のときに3回と、学校側に機会を作ってもらい、その間にコア業務ができるように養成をしていきました。子どもも受け入れ企業も、学校も、「三方良し」です。

 もちろん、途中で飲食の仕事ではなく、別の仕事に興味を持つ人もいます。でも一定数は残ります。全国の特別支援学校高等部でこうしたことを取り組んでいきました。

 パートタイムで1年更新ですが、コア業務に従事する方はフルタイムを目指しています。時給も上がっていきました。そうすると知的障害の人でも15万~16万円稼ぐことが可能でした。タッチパネルを使ったり、お客さんがオーダーしてきたものを臨機応変に対応したりしなければいけないのですが、スマートフォンの普及もあり、結構すんなりいけました。

「自身の評価が傾き始めてからだと、外では評価されない」

――そこを3年で辞め、起業したのはなぜですか。

 3年で転職していくイメージは持っていませんでしたが、経営者の勉強会でよく言われたのが、「会社を辞めるときは絶頂期に辞めなさい」という言葉です。「自分の業績や評価が傾き始めてからだと、外では評価されない」からと。また、自分の中でも、全国から講演依頼が来るようになったら辞めようと考えていました。スシローの障がい者雇用を担当して3年目になると、評判を聞いた行政機関や医療機関などから月1~2回のペースで講演をしていました。

 洋菓子メーカーのハラダも、回転すしチェーンのスシローも、自身も会社も絶頂期のときに辞めました。両社はとてもいい会社でしたし、今でも感謝しています。

ライフシフトビジネスプランコンテストで表彰される(右)=家住さん提供
――起業の準備はいつから始めたのですか。

 退職したのは、2016年2月です。しかし、その前年の11月に会社の設立登記をしています。会社には辞めることを伝えていましたし、登記だけして事業はしていなかったので問題はありませんでした。

――どのような事業をしようとしていたのですか。

 障がい者雇用をする中で全国の特別支援学校の高等部や施設を訪ね、子どもたちを見てきました。そこで気づいたことがありました。礼儀作法やコミュニケーションの方法、やる気の示し方、謝り方などはパッと見てできそうなのですが、本当の意味ではできていない子どもが目につきました。訪ねた先で毎回教えていました。就職活動するときには、それができていないと採用されないので。

 「だから企業の採用担当は、障がい者の雇用は難しいと考えてしまうんだろうな」と感じていました。経験値が足りないのです。特に社会経験が圧倒的に足りていないのです。

 そういうスキルを身につけさせるための最善の方法は、民間企業での経験に乏しい学校の教職員ではなく、私たち民間企業、特に人事経験者らが福祉・医療と組んでプログラムを作って支援していった方がいいのではないかと考えたのです。

 塾にすると裕福な家庭でないと通えません。生活への負担が少ないことを考えたとき、放課後等デイサービスの制度を利用するのがいいと思いつきました。

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