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学校給食で余剰農産物を処理するな!~「高級和牛を給食に」が映し出すもの

国民全体の利益から農業政策を考えようとしない「オール与党」の国会

山下一仁 キヤノングローバル戦略研究所研究主幹

 前回の記事『「和牛商品券」という愚策が提案されてしまった理由』で、最近特に農政が劣化した理由として、官邸の権限の強化、その裏側として財務省の力の低下を挙げた。

 その官邸は、政権浮揚に役立つような見栄えする政策以外は農林族議員に丸投げしている(『安倍官邸もアンタッチャブルな農業保護政策』参照)。農林族議員だけに限られたことではないが、中選挙区で複数の与党議員が政策を巡って切磋琢磨していた時代と違い、自民党の候補になりさえすればほとんど当選が約束される小選挙区制のもとでは、政策に明るいというようなことではなく、世襲議員であることや党の幹部に良い印象を与えていることなどが、候補者になるために必要な条件となる。

 こうして農林族議員の劣化も進む。

 和牛商品券は、その一つの表れだった。これには批判が強く、農林族議員の会議で合意されたものの、自民党の決定とはならなかったようだ。

 そうしているうちに、3月31日の衆議院農林水産委員会で、野党議員から需要が落ちている高級和牛を学校給食で食べさせたらどうかと言う提案があり、農林水産大臣が、大変良い考えなので、文科大臣と話をすると答弁したという報道が行われた(4月1日朝日新聞)。

 この記事を読んだとき、私は農政が劣化するもう一つの重要な要素を、論座の読者の皆さんにお話していないことに気が付いた。

 本来食料の安定供給を使命とする農政は、国民全体にかかわるものである。しかし、この要素があるために、農政は国民全体の意思とはまったく無関係に、少数の関係者の利益だけを考慮して、決められてしまう。

 東日本大震災の際、産官学が同じ利益を共有・追及する“原子力村”が非難された。しかし、“農業村”は、もっと悪いのかもしれない。

名古屋市の小学校給食。ご飯の上にあるおかずは「みそカツ」=市教育委員会提供

米国産小麦・脱脂粉乳→牛乳→コメ→和牛

 それを議論する前に、学校給食について、コメントしよう。

 児童が和牛を食べられるのなら良いことだと思われるかもしれない。しかし、国会でのやりとりを読んで、私は「また学校給食か」と思った。学校給食は、これまで過剰となった農産物処理のために利用されてきたからである。

 戦後、学校給食は、小麦から作られるコッペパンと脱脂粉乳を水で溶かしたミルクで始まった。小麦や脱脂粉乳はアメリカの余剰農産物だった。

昭和22年の給食の見本。脱脂粉乳とみそ汁(大根、にんじん、缶詰の肉)=2007年6月26日、京都市学校歴史博物館で

 農産物の過剰に悩まされていたアメリカにとって日本は有望な市場だった。アメリカはパン食普及の大キャンペーンを行い、1958年には米を食べると頭が悪くなるという大学教授の本まで現れた。中でも学校給食は、児童のころから日本人をパン食になじませることに成功した。

 次に、学校給食に導入されたのは牛乳だった。当時生乳生産は過剰基調だったため、酪農家は乳業メーカーからたびたび乳代の引き下げを求められ、乳価紛争が絶えなかった。1964年以降、生乳過剰を緩和するために、学校給食が活用された。脱脂粉乳は児童から評判が悪かったので、牛乳は歓迎された。しかし、父兄の給食費が増加しないよう、国からの補助金による牛乳の値引きが必要だった。

 さらに、1970年に米が過剰となってからは、学校給食向けの米の値引き売却や炊飯施設の補助も試験的に始まった。信じられないかもしれないが、それまで学校給食には一切米飯は使われていなかったのである。

 しかし、パン食が定着している中で、最初のころ米飯の導入は困難だった。今では普及したが、1976年学校給食に正式に米飯が導入された時でも、月数回、週一回程度がせいぜいだった。

 そして今回は和牛である。

過剰在庫がなくなれば学校給食から消える

 高価な和牛を学校給食で提供しようとすると、給食費の範囲内に抑えるため、多額の補助金が必要となる。同じように余っているマグロやホタテまで提供しようとすると財政負担は大きなものとなる。

 それだけではない。これは学校が教育の場であるという観点を無視している。これまでの学校給食の歴史も、余剰農産物の受け入れ、出す方からすれば、余剰農産物の押し付けだった。そこに教育という観点は少なかった。

 しかし、米飯も牛乳も、それなりに長続きしてきた。これを通じて児童は、世界や日本の食料・農業問題について考えるようになったかもしれない。また、主食である米を食べることは、日本人としてのアイデンティティに気づいたり稲作を通じて形成されてきた日本の社会や文化を勉強したりする契機になったかもしれない。

 しかし、今回検討されているものは、過剰が生じている今だけのものである。過剰在庫がなくなれば、和牛のメニューは学校給食からなくなる。

 レストランで売れなくなったものを食べさせられることを知った児童は、自分たちの胃袋が大人に都合よく利用されているだけだと気づくのではないだろうか?

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