メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

権力取材を改革して「脱癒着」宣言を

密着取材を具体的にどう変えていくかについては冷静な議論も必要だ

松本一弥 朝日新聞夕刊企画編集長、Journalist

政治意識の高まりと「ツイッターデモ」

国会前でプラカードを掲げて検察庁法改正案に抗議する男性=5月15日、東京都千代田区国会前でプラカードを掲げて検察庁法改正案に抗議する男性=5月15日、東京都千代田区

 「いまの政治は国民とほんとうに向き合っているのだろうか?」

 新型コロナウイルスが猛威をふるうなか、多くの国民が怒っている。「ステイホームせよ」と自粛生活を強いられ、それでも日々の暮らしを何とかしようと必死に生きているにもかかわらず、そんな一人ひとりの生活の苦しさを政治の側が本気で考えているとは思えない事態が長く続いているからだ。

 コロナ禍の影響で売り上げや収入が激減した事業者や働き手らに対して政府が用意した支援策はいずれも条件や手続きが複雑でわかりにくい。個々の制度は結局のところ、利用する側の消費者目線で作られていないためになかなかお金が手元にまで届かないとあって、これでは政治へのいらだちや不満は募るばかりだ。明日を生き延びるために必要な資金すら容易には手にすることができない以上、国民が政権や政治家の一挙手一投足をかつてないほど厳しく見つめるようになったのはむしろ当然の帰結といえるだろう。国民のいまのモヤモヤしたいらだち交じりの気分を抽象的に表現すれば「国民の政治意識は過去に例をみないほどの高まりをみせている」ということになるのではないか。

 他方、「国会の外」であるネット空間では、政府の判断で検察幹部を定年後も役職にとどめることができる特例規定を設けた検察庁法改正案に反対する「ツイッターデモ」が5月8日に突如現れた。発端となった最初のツイートは政治とは無縁の30代の会社員女性によるもので、タグをリツイートするだけで意思表明ができるハッシュタグ付きの投稿だった点が注目された。またその最初の投稿内容がイデオロギー抜きのわかりやすい文章で危機感を訴えていたことに加えて、これまでこうした抗議行動には登場しなかった著名な俳優や歌手、芸能人が「政治的」とみられることを恐れず勇気を持って次々に参加したことで、「#検察庁法改正案に抗議します」というメッセージは特定の集団の枠をはるかに超える規模で瞬く間に広がり、最終的にはネット上の大きなうねりとなって法案が結果的に廃案になるなど、現実の政治を動かす上での重要な原動力となった。

 ツイッターデモについては同時に、「ステイホーム」によって自宅にいることを余儀なくされた人々が、国会中継やワイドショーなどで政治の動きをじっくりチェックする時間的余裕ができたことによってもたらされた新たな社会運動という見方も可能だろう。

 国会の中、つまり院内で行われる議会制民主主義と、院外で展開される民主主義のもう一つの回路=直接民主主義を車の両輪のように連動させることで初めて議会政治は健全になるーー。そんな「動的な政治コミュニケーション」の必要性を1960年に唱えたのは政治学者の丸山眞男だったが、今日においていよいよあてはまると思われるその重要な指摘を踏まえた時、ネット上の民意をその都度冷静にどう見極めるかという問題はあるにせよ、国民の側からの異議申し立てであるオンラインデモが過去に例を見ないほど広範囲に展開されていると認識できた時点で、メディア側も今回の動きに対してもっとリアルタイムで積極的に反応すべきだったのではないか。

 そんななか、政治や権力を監視するはずのメディアの問題も浮上し、権力を持つ者と記者の距離(ソーシャルディスタンス)や、取材対象者である捜査機関や政治家などの権力者に接近して情報を取ろうとする「密着取材」や「権力取材」のあり方が「権力に取り入っているだけではないか」「権力との癒着」「なれ合いだ」などと厳しい批判を受けた。

 このように政治コミュニケーションの世界ではいま複数のフェーズ(局面)やレイヤー(領域)にまたがって注目すべき事態が進行している。言い方を変えれば、長年にわたって指摘されながら一向に変わらなかった「慢性疾患」の数々が、かつてない危機の到来によってその姿を再び白日のもとにさらされ、これまでのあり方に対して「行動変容」を迫られているのだと私には思えてならない。

 以下は「スロージャーナリズム」の一環として、今回起きた事態の意味を改めて振り返りつつ、Withコロナ時代の「ニューノーマル」(=新常態)のあり方を考えてみることにしたい。なお一連の見解はあくまで個人のものであり、所属する組織とは関係がないことをあらかじめお断りしておく。

内閣支持率の急落と賭けマージャン

 今回、新たな政治コミュニケーション手段であるツイッターデモの動きがネット上で広がるなか、メディアによる世論調査では内閣支持率が急落し始めていた。例えば朝日新聞が5月16日と17日に行った緊急の全国世論調査では、改正案への「反対」が64%と「賛成」の15%を大きく上回り、内閣支持率は41%から33%に急落して注目を集めた。検察庁法改正案には検察庁OBや弁護士らも強く反発、安倍政権批判を強めていった。

 オンラインデモの広がりとともに内閣支持率の急落を心配した政権は、このまま審議を強行すればさらに支持率が下がりかねないと危機意識を強め、その結果、5月18日夜には安倍首相が「国民の理解なくして前に進むことはできない」と語るに至った。

 だが、ツイッターデモが現実の政治に影響を与えたと多くの人が感じたその裏で、検察庁法改正案の今国会成立断念にはもう一つ別の動きが絡んでいた。

 政権側が次期検事総長に据えたいと考えていたとされる渦中の人物である東京高検の黒川弘務検事長が、コロナの感染拡大を受けた緊急事態宣言が出ていたさなかの5月、朝日新聞社員や産経新聞記者と賭けマージャンをしていたことが明らかになったと5月20日、週刊文春(電子版)が報じたことが「引き金」となった。

問われたメディアと権力の距離

車から降りて無言で自宅に入る東京高検の黒川弘務検事長=5月21日、東京都目黒区車から降りて無言で自宅に入る東京高検の黒川弘務検事長=5月21日、東京都目黒区

 事件の経緯を改めて振り返っておけば、「週刊文春」(5月28日号)によると、同誌は5月17日午前10時すぎ、黒川氏を直接取材。翌18日も事実関係の確認を申し入れたうえで東京高検に連絡を入れたという。週刊文春が取材しているとの情報はその日のうちに首相官邸にも伝わったとみられ、検察庁法改正案の今国会での成立見送りが関係者の間で話し合われたとされる。政権内部で見送りがいつ決まったかなど詳細な経緯は現時点でまだ明らかになっていないが、この不祥事発覚が政権の判断に影響を与えたことは間違いない。黒川氏は法務省の聞き取り調査に事実関係を認め、辞職した。

 コロナ禍のさなか、元検察担当の朝日新聞社員や産経新聞記者2人の計3人が黒川検事長らと賭けマージャンを繰り返し行っていた事実が発覚したことで、朝日新聞社に対しては「黒川氏とズブズブの癒着があったと思われても仕方がない」「大いに失望した」「自らに甘すぎる」「抜本的な改革を求める」等の厳しい意見が多数寄せられる事態となった。

 今回の件で私が思い出したのは、社会の本質をえぐり出す優れたルポルタージュをいくつも書いて世に問うた元共同通信編集委員、斎藤茂男の言葉だ。

 記者を取り巻く環境が激変するなかで「現実との対応関係を断たれ」た記者の内面に起こる質的変化について言及した下りで、斎藤はこう述べている。

 「自分はしがない労働大衆の一人にすぎないのに、日ごろつきあっている政治家や財界人や高級官僚や労働ボスなどの『上』からの支配感覚に染まってしまって、歩き方や話し方までそれらしくなる、といったコッケイな風景も出現するのだ。もともと戦後社会の仕組みのなかで、マスコミ大企業に職を得ている者は、広い目で見れば曲がりなりにも〝社会的強者〟の側に近いであろうから、このような疑似的な階層転位の落とし穴にじつに容易にはまりやすい、とも言えるだろう」(『ルポルタージュ日本の情景11 事実が「私」を鍛える』、56ページ、岩波書店)

「権力と同質化し、民主主義の基盤を揺るがしていないか」

 ここから先は、メディアと権力の関係はどうあるべきか、また権力者や権力を持った組織を取材対象にする権力取材はどう行うべきなのかについて考えてみたい。

 「情報」という観点からいえば、記者との力関係で権力側はつねに圧倒的に優位な立場に立っている。いわゆる機密情報を含め、例えば捜査機関はすべての捜査情報を握り、首相官邸にはすべての重要な政治情報が集中しているからだ。こうした非対称の構図の中にあって、記者はどう行動すべきか日々問われている。

 こと権力取材の場合に限定していえば、取材対象である権力者や権力組織に近づき、信頼関係を構築してその関係を「深め」ながら、権力の核心部分で行われていることや権力者の本音に迫ろうとする。それがこれまでの中心的かつ「ノーマルな」取材手法だった。ここではこれを「密着取材」と呼ぼう。

 だが、権力との癒着を感じさせるこうした密着取材は今回世論の激しい反発を招いたほか、例えばメディア研究者やジャーナリストらで構成する「ジャーナリズム信頼回復のための提言」チームも7月10日、「ジャーナリズム信頼回復のための6つの提言」を出して批判した。

 提言はこうした手法について「水面下の情報を得ようとするあまり、権力と同質化し、ジャーナリズムの健全な権力監視機能を後退させ、民主主義の基盤を揺るがしていないか」と問いかけた。また、こうした取材慣行は長時間労働の常態化につながっていると指摘した上で、「この労働環境は日本人男性中心の均質的な企業文化から生まれ、女性をはじめ多様な立場の人たちの活躍を妨げてきた」と批判した。

 権力との「癒着」「同質化」は今日許される状況にはなく、そこから脱却すべきだと主張することは100パーセント正しい。また提言は日本のジャーナリズムが抱える様々な問題点を的確に指摘していて、ジャーナリズムの信頼を回復させるための貴重な問題提起となっている。だから私も後から賛同者の一人に名を連ねた。

 だが同時に、提言を読んでいると一つの素朴な疑問が浮かんできたのも事実だ。

 提言がいう「早朝夜間の自宅訪問」など「『懇談』形式での取材の常態化が長時間労働やセクシュアルハラスメントの温床」になっているのではないかとの指摘を一当事者としてあくまでしっかり受け止めた上での話なのだが、権力取材などにおいてこれまで行われてきた密着取材は、ただ全否定して葬り去るだけの代物なのだろうか?という疑問だ。

密着取材や権力取材は何のために行うか

ロッキード事件で逮捕された田中角栄前首相宅の家宅捜索に入る捜査員たち=1976年7月、東京・目白台ロッキード事件で逮捕された田中角栄前首相宅の家宅捜索に入る捜査員たち=1976年7月、東京・目白台
保釈され東京拘置所を出る田中角栄前首相(中央)=1976年8月、東京・小菅保釈され東京拘置所を出る田中角栄前首相(中央)=1976年8月、東京・小菅

 問題点を整理しておこう。

 権力者や権力組織に接近して「深い」関係を作ろうとする密着取材は何のために行うのか。

 一言でいえば、記者が権力監視を行うためだ。

 その大前提として、権力を監視するための取材には密着取材以外にもいくつかの手法があることは大事な点として押さえておこう。あらかじめ質問項目を提出させられたあげく、その場での追加質問などにも一切応じてもらえないことも少なくない記者会見の場で相手を厳しく問いただすこと、公開されているオープンデータを駆使して権力側の矛盾点をあぶり出すやり方……。だがそのなかにあって、提言が指摘するような様々な問題点をはらんでいるとの指摘を真摯に受け止めた上での話ではあるが、当の密着取材は圧倒的に不利な情報環境を切り崩し、権力監視を行う手法として有効に機能する部分もあったということもまた一方の事実ではないか。

 これまでの報道現場では、デスク(次長)が記者に対し「ごちゃごちゃいわずにとにかく相手(=権力者)に食い込んで情報を取ってこい」と怒鳴りつける光景がしばしば見られたものだ。長時間の「密着」「肉薄」を当然のこととして記者に求めるデスクのこうした姿勢は今日の観点からすれば極めて問題があるといわざるをえないだろう。

 また、たびたび指摘されてきたいわゆる「アクセス・ジャーナリズム」の弊害もしっかり押さえておく必要があるだろう。権力に近づいて情報を入手しようとするこの取材手法はごく一般的に世界各国で行われているものだが、その手法だけに頼りすぎれば権力者との距離が近くなりずぎて記者は視野狭窄に陥りやすくなる。また仮に権力者や権力組織に「食い込めた」として、その結果「情報リーク」などの形でもたらされる情報が実は権力側にとって都合のいい情報が圧倒的に多く、記者がだまされたり誘導されたり操作されたりするといったことが過去にも(そして現在も)数え切れないほど起きているからだ。

 だからこそ、リークされた情報を一から疑ってかかり、真偽を含め、様々な角度からその情報の質と内容を見極めた上で使うプロとしてのクールな視点が不可欠となる。

 とはいえ、密着取材の個々のケースを分析せず、また密着取材の中身を精査して「どんな条件をつけた場合に密着取材は今後に向けて有効な取材手法として残していけるか」などの点をまったく検討しないまま、あるいは「長時間労働やセクシュアルハラスメントの温床」とならない形での密着取材の可能性や、密着取材に代わる「信頼できる取材手法」を具体的に新たに考えること、さらには記者全員が密着取材をやめた場合に権力監視は現実的に可能かーーなどの点を考慮しないまま、ただ密着取材を「悪」と決めつけ、一般論として全否定するだけでは実は問題は一向に解決しないのではないかーーというのが私の問題提起だ。

 なぜなら、権力者を含む取材相手との間に適切な距離と緊張関係を維持した上で行う、報道の独立性の観点からも疑義を持たれないようなまっとうな「深い」取材と、権力との同質化を指摘されるような「なれ合い、癒着した」不適切な密着取材は、実は紙一重の関係にあると考えられるからだ。

 「密着取材」=「権力との癒着」だとするいまの社会的風潮を受けて、報道現場の一部では若手記者を中心にすでに動揺が広がり始めている。一定の「深い」取材をしない限り様々な「権力」(そこには記者が日常的に取材対象としている地方の行政組織や警察、検察、地方政治家らが当然含まれる)の内幕で何が起きているかが実際には把握できないことが多いにもかかわらず、権力者や権力組織に接近すること自体をよしとしない空気が報道現場にも次第に広がってきているからだ。

 私は何もここでこれまでのあらゆる密着取材や権力取材を擁護しようとしているのではない。そうではなく、議論はある程度緻密かつていねいにやらなければ、これまでの紋切り型のメディア批判でよく見られたように議論が現実とジャーナリズムの実態からずれていってしまいかねないことを危惧しているだけだ。

 そうした不毛な事態を避けるためにも、密着取材や権力取材に絡む様々な問題や課題をまずはすべて洗い出した上で個々のケースについて対応策を冷静に議論していくことこそが、権力取材や密着取材の具体的な改革、ひいてはジャーナリズムが失った信頼を回復するための具体的な回路を見いだすことにつながっていくのではないだろうか。

問われるべき核心は何か

 繰り返しになるが、ここで問われるべき核心、少なくともその一つは何か。

・・・ログインして読む
(残り:約8131文字/本文:約14384文字)