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志半ばで倒れた財界総理

【5】日立製作所「この木なんの木」の時代の終焉/2021年

大鹿靖明 ジャーナリスト・ノンフィクション作家(朝日新聞編集委員)

 闘病中だった日本経団連の中西宏明・前会長が6月、亡くなった。社長、会長を務めた日立製作所から初めての財界総理への就任ということで本人も意欲満々だったが、病魔に倒れ2期4年の任期途中に退任に追い込まれ、間もなく志半ばの死を遂げた。

 そのひと月前には、日立の印象的なCM「この木なんの木」の作曲家である小林亜星も亡くなった。国民だれもが口ずさめるあのCMは、枝ぶりのいい隆々たる巨木とともに、いくつものグループ企業名がテロップに流れ、「大きいことは良いことだ」の象徴だった。電機最大手の日立は、そんな典型的な日本型コングロマリットだった。2人の相次ぐ死は、あたかも、その時代の終焉を告げているかのようだ。

春闘を前に行われた経団連と連合のトップ会談。入院中の中西氏はテレビ会議システムで参加した=2021年1月27日、東京都内

東大時代は全共闘シンパ

 中西宏明は1970年、東大工学部電気工学科を卒業し、日立製作所に入社した。工学部卒の就職先の中では、日立は東芝と並んで最も人気があった時代である。ちょうど原動機や発電機といった祖業から60年代の高度成長期に、洗濯機や冷蔵庫などの家電、原子炉や新幹線車両、さらにはトランジスタなど電子部品に事業領域を拡大していた。コンピューターによって膨大な情報を処理するシステム分野にも参入し、新幹線の運転管理システムを開発したころでもあった。

 中西は戦後間もない1946年に生まれた団塊の世代だった。父祐憲は敗色濃厚の44年に東京・神田に測定器や制御機器を作る美和電気を創業し、宏明は女子2人の後に生まれた大事な跡取り息子だった。中小企業といえども父の会社は日本の高度成長とともに拡大し、裕福な家で育った彼は横浜市の日吉から東横線で越境して田園調布小中に通学し、都立小山台高校に進んだ。

 一浪して東大に合格したが、「どうしても電気工学に進みたい」と一年留年している。「親父が会社を『継げ、継げ』とうるさいもんだから、電気工学科に行かないとならなかったの」と中西は言っていた。戦後民主主義の時代の、東京の金持ちの〝ボンボン〟だからガツガツしたところがなく、出世亡者のようなところは感じられなかった。偽悪的でもある〝べらんめえ〟調は、育ちのいい麻生太郎財務相の口のきき方と似ている。

 全共闘の時代。中西はシンパだった。「大学の自治といっても、しょせん教授会の自治だ。教授会の支配に我々はもっと立ち向かうべきだ」。級友たちは、クラスでそういっぱしのことを言う中西のことを覚えている。「とにかく元気で目立ちたがり屋」と同級生は言う。「そのときに受けそうなことをパッと上手にとらえるのがうまかったよ。でもゲバ棒を持って機動隊とぶつかるとか安田講堂に籠城するようなことは絶対にしない(笑)。一線を超えないんだ」(同級生)。小田実の「何でも見てやろう」が広く読まれた時代に中西も米国を旅行したが、それはバックパッカーのような貧乏旅行ではなく、海外視察のために訪米する父のお供だった。

 日立で就職希望の学生をスカウトする役目を仰せつかっていたのが、中西の13歳先輩の桑原洋(元日立製作所副会長)だった。桑原いわく、「彼は闘士だったよ(笑)。面白そうな連中に声をかけまくったんだが、彼はその筆頭。『桑原さん、あなたの言っていることはナンセンス!』なんて言われちゃってさ」。桑原はその元気の良さを買った。家を継がせるつもりだった父に対しては、後に副社長になる森田和夫が電話を入れて「あなたの息子さんは日立がもらった」と断りを入れたという(結局、中西の姉の息子、つまり甥が継いでいる)。

主流の日立工場ではなく大みか工場に配属

 いまでもそうだが、原子炉から電気髭剃り機まで造る日立にあって、主流は発電機を製造する日立工場だった。それに対して中西が配属されたのは、

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