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江田五月氏を悼む〜戦後民主主義を体現したその人生

父の急逝から大きく変わった進路

榊原英資 (財)インド経済研究所理事長、エコノミスト

 去る7月28日、江田五月氏が肺炎のため岡山市内の病院で死去した。享年80歳だった。江田氏は筆者と同年齢、東京大学では同学年だった。1960年に入学し、学生運動を指揮したため、一時退学処分が下ったが、後日学生運動からの離脱を宣言し、大学に復学している。大学では、丸山真男ゼミに属し、筆者も経済学部だったがゼミを聴講していたので、その頃から親しく付き合っていた。

自身の誕生日に父が急逝

 1977年5月22日に五月氏の父江田三郎氏が急逝した時、偶々筆者は江田五月氏と会っていたので、病院に一緒に駆け付けた。その日は、江田五月氏の誕生日だったことで、氏は何か運命的なものを感じたように見えた。その時までは、五月氏は裁判官だったのだが、父の死に立ち会い、父の後を継いで政治家になる事を決意したのだった。一緒にいた筆者もその転身に全面的に賛成し、それを奨めたのを覚えている。

父・江田三郎氏の写真が、旧社会党委員長室に掲げられた際の江田五月氏(左端)=1992年撮影父・江田三郎氏の写真が、旧社会党委員長室に掲げられた際の江田五月氏(左端)=1992年撮影
 江田五月氏は社会民主連合公認で全国区から立候補し、参議院議員に初当選した。筆者は政治家の選挙を応援したことは殆どないが、この時だけは岡山まで出向き、五月氏を応援した。尤も、殆ど役に立たなかったのだ。しかも、軽い自動車事故を起こして、かえって迷惑を掛けてしまった。

 1993年の第40回衆議院議員総選挙で、自民党を離党した羽田牧、小沢一郎の「新生党」。武村正義、鳩山由紀夫らの「新党さきがけ」。細川護煕、小池百合子らの「日本新党」が大きく議席数を伸ばし、“新党ブーム”が巻き起こった。その結果、自民党は過半数を割り込み、宮澤喜一首相は退陣を追い込まれた。宮澤内閣の退陣により、非自民、非共産8派による細川内閣が誕生し、江田五月氏は科学技術庁長官に就任した。1994年には社民連が解党し、日本新党に入党したが、細川内閣は8ヶ月で崩壊、続く羽田内閣も64日で退陣に追い込まれた。

 1994年末、江田五月氏は新進党結党に参加している。1996年、岡山県知事選挙に立候補するも、自民党推薦の石井正弘氏に敗れている。知事選挙後は、民主党に入党し、1998年民主党公認で立候補し、2年ぶりに国政に復帰した。2004年に岡山選挙区の議席数は2から1に改められたが、再選を果たしている。

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