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「矢野論文」があぶり出した与野党オール「バラマキ合戦」の無責任

国債は打ち出の小槌ではない――「たたかれ台」となった健全財政への直言

原真人 朝日新聞 編集委員

 財務省の矢野康治事務次官が月刊誌「文藝春秋」への寄稿で与野党の政策論争を「バラマキ合戦」と指摘したことが政界で物議を醸している。衆院選をめぐる各党代表の討論会では必ず質問に採り上げられ、ムキになって批判する自民党幹部もいる。一官僚の提言にここまで反響が大きいのは、裏を返せば矢野氏の指摘があまりに図星だったということだろう。安倍・菅政権下で官界を覆っていた「物言えば唇寒し」のムードは、国家財政の財布のひもを握り「頭の堅い金庫番」と煙たがられてきた財務省でも例外ではなかった。矢野論文がその沈黙を破り、国家財政の〝座標軸〟を改めて示し、選挙戦論戦を軌道修正させたことをまずは歓迎したい。

「文藝春秋」11月号に載った矢野次官の論考「文藝春秋」11月号に載った矢野次官の論考

直言に気圧された政治家たち

 矢野論文の主張内容は、実はとりたてて斬新な主張が盛り込まれていたわけではない。かねて麻生太郎・前財務相はじめ財務省幹部らが記者会見の場などで発信してきた主張をまとめたようなものだ。伝統的に財務省が掲げてきた財政健全化の原則を改めて整理しているにすぎない。

 とはいえ、それを婉曲的ではなく直裁に語り、与野党のバラマキ策をはっきり批判したところに矢野論文の真骨頂がある。この感想を求められた宮沢洋一・元経産相が「彼とは長いつきあいだが、熱血漢だからね」(BS-TBS「報道1930」)と語っていた。矢野氏の財政再建に対する一本気な情熱は与野党で政策責任者を務めた政治家たちの間ではそれなりに知られた話だ。

 月刊誌での主張内容、たとえば「経済対策を打つ際に財源をどうするかという議論がなさすぎる」「財源のあてもなく公助を膨らませようとしているのは日本だけ」「超低金利で金利が事実上ゼロでも、財政出動を増やせば単年度収支の赤字幅が増え、財政は際限なく悪化してしまう」「消費税引き下げは問題だらけで甚だ疑問」といったものだった。

 当然の指摘ばかりなのだが、それでもこれだけ大きな反響を呼んだのは月刊誌発売のタイミングが衆院選の選挙戦に突入する時期と重なった事情が大きい。しかも選挙に向けて各党が発表した公約が、まさに矢野論文がいうところの「バラマキ合戦」そのものだったから、なおさらだった。与野党とも自党の公約を批判されたかのように受け取ったにちがいない。

 「やむにやまれぬ大和魂か、もうじっと黙っているわけにはいかない、ここで言うべきことを言わねば卑怯でさえある」。そう書いた矢野氏の気迫に政治家たちが気圧され、無視できなくなったという面もある。自民党内には矢野更迭論を唱える声さえあったというから、そのインパクトたるや、けっして小さなものではなかった。

財務省官房長時代の矢野康治氏(現・財務事務次官)。2018年4月、衆院財務金融委で答弁。左は麻生財務相(当時)財務省官房長時代の矢野康治氏(現・財務事務次官)。2018年4月、衆院財務金融委で答弁。左は麻生財務相(当時)

給付金や減税分の財源を示さぬ各党

 各党が「バラマキ合戦」に陥っていることは、次のような各党の公約からも一目瞭然だ。歳出・給付策では、「数十兆円の経済対策」(自民)、「低所得者に12万円の現金給付」(立憲民主)、「0歳~高校3年生まで一律10万円給付」(公明)、「減収した人に給付金」(共産)、「財源30兆円でベーシックインカム」(維新)、「一律10万円給付、低所得者に上乗せ」(国民)、「10万円の特別給付金」(社民)、「財政出動」(N党)といった具合だ。

自民党の政権公約発表会見を行う高市早苗政調会長=2021年10月12日、自民党本部自民党の政権公約発表会見を行う高市早苗政調会長=2021年10月12日、自民党本部

 減税策も、野党側から、「(時限的な)消費税率5%への引き下げ」(立憲民主、共産、維新、国民)、「3年間、消費税ゼロ」(社民)、「消費税廃止」(れいわ)、「年収1000万円程度まで所得税を1年間ゼロ」(立憲民主)などがあがっている。

 まさに財政の大安売りを競い合っている構図である。しかも各党に共通するのは、数十兆円規模にものぼろうという給付や減税などの財源について、責任ある調達シナリオを示していないことだ。もし消費税率(現行10%)を5%幅引き下げるなら、少なくとも年間10兆円以上の税収が減る。その穴埋めをどうするのか。

 正攻法でそれだけの財源をまかなおうとするなら、東日本大震災の復興財源を調達する際に決めた、所得税や法人税での長期的な増税、つまり「復興増税方式」しかない。

 しかし、この不人気政策をやろうと言える政治家が実はいま、国会には数えるほどしかいない。昨年来、国会の場でそれを具体的に提案したのは、私が知る限りでは野田佳彦・元首相(立憲)や財務官僚出身の岸本周平氏(国民)らごくわずかだ。

 公示前の記者会見で政策財源について聞かれた立憲民主党の枝野幸男代表は「国債に決まっているじゃないですか」と答えていたし、玉木雄一郎・国民民主党代表は「教育国債、永久国債の発行を」と言っていた。れいわ新選組やNHK党のように国債を「金のなる木」のごとく語る党もある。

 念のために説明すれば、国債は政府の「借金証文」であって「財源」ではない。政府にとっては、財源捻出まで調達を先送りできる道具にすぎない。たとえその呼び名に「教育」の冠をつけたところで政府の借金はなくならないし、「永久」化したところで貸し手は高利回りで資金を回収しようとするだろうから、政府にとって財源調達コストが安上がりになるかどうか疑わしい。

 月刊誌の場合、掲載原稿の締め切りは少なくとも発売の1カ月以上前という。つまり矢野氏があの原稿を書いたころ、岸田政権のもとで解散・総選挙がおこなわれているかどうかは、まったく見通せていなかったはずだ。現状のような各党のバラマキ策を知ってから書いたわけではなかったのだろう。だが現実の展開は、おそらく矢野氏の想定以上にひどいバラマキ合戦へとエスカレートしていた。結果的に、そこに冷や水を浴びせるかたちとなった。

「健全財政」という座標軸に対する各界人士の距離は……

  政界や経済界の反響を会見やテレビ出演などでの発言から主なものをあげてみよう。

 ◇岸田文雄首相 「いろんな議論があっていいと思うが、いったん方向が決まったなら、関係者にはしっかりと協力してもらわなければならない」

 ◇鈴木俊一財務相 「財政健全化に向けた一般的な政策論を述べたもの。手続き面も問題ない。政府の考えに反するようなものでもない。財政健全化はとても大切なものだと思っている」

 ◇高市早苗・自民党政調会長 「大変失礼な言い方だ。基礎的な財政収支にこだわって本当に困っている方を助けない。子供たちに投資しない。これほどばかげた話はない」

 ◇山口那津男・公明党代表 「財政を維持する観点からの一つの見識を示したもの。政治は国民の生活や要望を受け止めて合意を作り出す立場だ」

 ◇枝野幸男・立憲民主党代表 「私達は再分配と言っている。比較的ゆとりのある方には応分の負担をお願いする。金融所得課税をできれば来年度から、遅くとも再来年度には25%に上げ、近い将来、総合課税化する。法人税を累進課税化して実際の負担率が低い超大企業には応分の負担をしてもらう。それを元手の中心に置いた上で、分配する。与党からそういう負担をお願いする提案が全くないということを大変残念に思う」

 ◇桜田謙悟・経済同友会代表幹事(SOMPOホールディングス社長) 「書かれていることについては100%賛成。ファクト(事実)だと思う。常識的に考えても最も多くの政府債務を抱えている国、そしてOECD加盟諸国の中で最も成長率と生産性が低いと言われている国(である日本)が(財政問題を)無視してよいはずがない」

 ◇十倉雅和・経団連会長(住友化学会長) 「財政規律は堅持しなければいけないが、今は財政出動が求められている局面だと思う」

 こうした反応は、矢野氏が示した「健全財政」という座標軸に対してそれぞれがどのような立ち位置にあるのかを浮かび上がらせる。

 鈴木財務相の発言はきわめて控えめだが、財政を司る大臣として矢野論文の内容にまちがいはないとお墨付きを与えた。また、本来は財政問題に理解が深いと言われる岸田首相も、矢野論文を批判しなかった。ただし、矢野氏のいうような財政健全化はそう簡単には進められないということも、におわせた。「主張に反するような決定を下したとしても決まったら従えよ」と釘を刺したのだ。

 公明党の山口代表の発言も首相に近い。矢野氏の正論もわかるけれど、政治の現実はそんなにきれいにはいかないのだよ、といったようなニュアンスだろうか。

 10月24日のフジテレビ「日曜報道THE PRIME」に出演した各党党首たちは、司会から「矢野論文の主張に賛同できる部分がある人は挙手を」と求められ、岸田(自民)、山口(公明)、枝野(立憲)、松井(維新)の4党首が手を上げた。ただ、岸田首相はここでわざわざ「賛同できる〝部分〟があると申し上げています」と補足し、いまは財政出動によって経済を回すことが優先される点を強調した。

 立憲の枝野氏もかつて民主党政権で要職にあった経験から、国家財政の重要性は痛いほどわかっているはずだ。矢野論文について問われても、真っ向から反論しなかったのはそのためだろう。そして、立憲民主党がやろうとしているのは再分配だと言い、富裕層や大企業への課税強化案を提案していると強調した。財政健全化にも目配りしていますというアピールである。

記者会見で衆院選公約を発表する立憲民主党・枝野幸男代表=10月13日記者会見で衆院選公約を発表する立憲民主党・枝野幸男代表=10月13日

 枝野氏が給付や減税のみならず、負担増の話をここで打ち出したことは評価したい。ただし、同党が提案する金融所得課税や法人税の累進税化でも、残念ながら5%幅の消費減税の減収分を補うほどの財源を求めることはできそうもない。財政健全化への目配りは最後の帳尻までは行き届いていないように見える。

 経済界はどうか。同友会の桜田代表幹事の反応は、経済界の代表としては当然の主張だと思う。国家財政の安定は経済活動の基盤である。ところが十倉経団連会長の発言はそれと距離をおき、異様なほど政治に気を遣うものだった。物言う財界首脳の役割は、はるか昔の話になってしまったらしい。

 矢野氏に対して「大変失礼な言い方だ」と怒りをあらわにしたのは高市氏だった。そこには矢野論文が問いかける財政への危機感はまったく見えない。総裁選で高市氏の後ろ盾となった安倍晋三・元首相の意向も働いているのかもしれない。

 報道によると、安倍氏は矢野論文について「あれは

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