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原発避難者の私が帰還困難区域の自宅を解体することを決意した理由

高齢・病気……終のすみかと決めた家に帰る希望はどんどん萎んでいった

北村俊郎 元日本原子力発電理事

「公費の解体を希望するか」環境省から年末に問い合わせ

 福島第一原発から7キロの地点にある自宅が帰還困難区域になり、そこから西に120キロ離れた須賀川市で避難生活を送るようになってから、12年が経過した。

 昨年暮れ、環境省から、自宅のある富岡町深谷行政区の除染が2024年度に始まるという情報とともに、公費で家を解体する希望があるかどうかの打診の連絡がきた。

 解体は公費で行われる。後日、自分で行うのであれば、場所が場所だけに数百万円はかかる。これまでは、避難指示が解除されたら帰還して元の家で暮らそうと考えていたが、自宅の建物の解体を決意し、とりあえず帰還しないという決断をした。家の解体は今月13日から始まり約1ヶ月で終了する予定だ。

 もともと気候温暖で快適な田舎暮らしができると考えて移住をしたので、避難先の中通り地域の厳しい気候には耐えられないものがあるが、かと言って、更地になった跡に家を新築して暮らすという選択肢は80歳に手が届く年齢となった現在、このあと何年暮らせるかわからない家を再建するという気にはならない。

2000年12月に完成した筆者の自宅。今年3月13日から解体が始まる2000年12月に完成した筆者の自宅。今年3月13日から解体が始まる=福島県富岡町、筆者撮影

新聞の訃報欄が気になるようになった

 帰還して元の家で暮らせるという希望は、ここ数年の間にどんどん萎んでいった。木造家屋は人が住んでいないと劣化が早い。特にここ数年は目に見えて傷みがひどくなった。同じように、人も年齢を重ねると基礎疾患を持つようになり、年毎に体力と気力が衰えてくる。この12年間で住民の1割程度が亡くなり、新聞の訃報欄がいつも気になるようになった。

 富岡町が元住民に配布する資料の中に、「ライフとみおか」というパンフレットがある。今月配布されたVol.20号に長崎大学・富岡町復興推進拠点が書いた「放射線リスク認知に関する経年的な変化」と題する記事がある。長崎大学は地域の人々の放射線健康相談を震災の翌年から担当し、2017年度から町民にアンケート調査を行ってきた。

 2017年度の調査(対象人数2200人)と2021年度の調査(対象人数2500人)の結果の比較をしたところ、帰還意向は、「帰還を悩んでいる人」の割合が減少し、「帰還意向がある人」、「帰還意向がない人」がそれぞれ増加しているという。また、富岡町で生活することによる「自身の健康影響への不安がある人」、「放射線被ばくによる遺伝性影響への不安がある人」の割合は減少している。

 アンケート調査に答えた人の年齢では2017年度から2021年度に60歳以上が、7ポイント増えて70パーセントに、また、子どもとの同居は5ポイント減って15パーセントに、帰還意向なしは7ポイント増えて64パーセントになっている。放射線の健康影響、食物摂取への不安などは、いずれも減って50パーセント前後に落ちている。避難から12年経ち、帰還するか悩んでいる人が、その選択を迫られたことが数字に現れている。

コミュニティーが崩壊するということ

 福島県や富岡町は住民の帰還に備えて、インフラの整備、警察や消防、スーパーマーケットやホームセンターの誘致、医療機関や介護施設、災害復興住宅などの整備をし、町内でバスを循環させている。スーパーマーケットには近隣の町村の住民や復興事業、廃炉事業の関係者も多く来店している。

 しかし、住民の帰還に立ちはだかるのが、これまで地域を支えてきたコミュニティーの崩壊と、長く暮らした避難先での経験だ。このことを理解しなければ復興事業は空回りしてしまう。

 都会ではひとり暮らしの人も多く、それなりに生活できるが、田舎暮らしではコミュニティーの存在が生活をするうえで欠かせない。富岡町住民課によれば、2011年3月11日時点で、自宅のある深谷行政区は116世帯、316人だった。現在は、帰還困難区域となって住民はいない。

 行政区の区長に聞くと、将来、帰還の希望がある世帯は、区長と私を入れて多くて4世帯しか確認できていない。私が諦めれば3世帯ということになる。福島第一原発により近い北隣の小良ケ浜行政区も、元は134世帯、359人だが状況は同じようだ。

 震災・原発事故の前、富岡町では自己所有の家屋に住む世帯が8割を超え、多くの世帯が2世代、3世代同居だった。別々に暮らしている場合でも、同じ敷地あるいは、同じ町内か隣接する町村にいた。そこでは年老いた親を子どもや孫が面倒を見ながら暮らす。共稼ぎ夫婦であれば、就学前の小さなこどもは昼間は祖父母に見てもらうことができた。夕食の支度も祖母が担当する。

 高齢者も通院や買い物に行く場合は、子や孫の運転する車に同乗させてもらえた。また、親戚や幼馴染の友人も近くにたくさんいた。行政区内のさまざまな共同作業、例えば道路際の草刈や清掃なども、かつては各世帯から参加して行われていた。

 原発事故により長期に、また遠くに住民を避難させ、比較的早く不動産の賠償や精神的苦痛に対する慰謝料が支払われたこともあり、現役世代は避難先に新たに家を建て、再就職を果たし、子どもも避難先の学校に入り生活の基盤が避難先にできてしまった。

帰還困難区域入口のバリケード=2020年7月10日帰還困難区域入口のバリケード=2020年7月10日、筆者撮影

 元住んでいた地域に帰還を希望する人の多くは高齢者だが、希望が叶えられて帰還したとしても、すでにコミュニティーが持っていた共助の網が破れてしまっている。富岡町の場合、数年前に町の面積の4分の3は解除されているが、そこに居住しているのは避難前の約15000人に対して2月1日現在、2085人で、その半数以上が新たに県内外から来た新住民だ。世帯数が1465なので出入りの多い単身赴任の工事関係者が多いことがうかがえる。

 コミュニティーが持っていた共助の網の綻びを行政でカバーすることはほとんど不可能だ。住民が帰還しないために家屋を解体して生まれた多くの空き地の管理の問題もある。地権者は遠く離れて暮らしている場合が多く、行政ができることは除草剤を配ることくらいだ。もし避難指示が解除された後に帰還したとしても、高齢者だけで地域の環境を守ることは困難を極めるだろう。新たに増えた住人は工事関係者が多い。彼らは宿舎に暮らし、出入りも多い。

都市部で暮らす利便性が身に染みる

 帰還意思を削ぐもうひとつの要素が、長きにわたった避難先での都会暮らしの経験だ。多くの避難者は都市部にいたことで、都市の便利な機能をたくさん経験した。かつては、同じ福島県内とはいえ、浜通りから県庁所在地の福島市、最大人口の郡山市は、120キロ以上離れていたため行く機会がなかった。太平洋岸にあるいわき市にもめったには行くことはなかったし、暮らすこともなかった。

帰還困難区域にある自宅に一時帰宅し、枯れた庭の木の手入れをする北村俊郎さん=2021年1月29日、福島県富岡町帰還困難区域にある自宅に一時帰宅し、枯れた庭の木の手入れをする筆者=2021年1月29日、福島県富岡町

 それが避難で都会暮らしをしたことによって、大型の商業施設、飲食店、娯楽施設、医療機関、公共交通など都会の提供するあらゆる利便性を初めて経験し驚いた。もともと不便なところに暮らしていたのだから、帰還しても元に戻るだけと考えがちだがそれは違う。避難した時は60代半ばだった人はすでに70代後半で、周りからのより手厚い支援を必要としているが、子どもや孫は元の家からは遠く離れて暮らすようになり、仲間だった人たちも少なくなっている。

 日本人の死因は癌、心臓疾患、脳卒中がほとんどだが、癌は通院や自宅医療が長くつづき、あとの二つは発作の際の緊急医療が必要となる。私もこれまで比較的健康で病院とは無縁だったが、ここ数年は前立腺などで病院通いをするようになり、今年に入って狭心症で緊急入院までした。

 その際、救急車は5分で手術が可能な病院に到着した。しかし、富岡町の場合、新たに建設された医療センターに聞くと、救急車はいわき市か南相馬市の病院に向かうことになり、そこに到着するまで1時間程度はかかるという。敷地内にヘリポートがあるが、平日の昼間だけで、時間や天候によっては使えるかは不確実だという。大都市であれば直ちに施設の整った大きな病院での救命措置を受けることができる。高齢者が病院通いや緊急医療のために田舎より都会を選択するのは当然だ。

 このようなことになったのは、あまりにも避難している期間が長かったからだ。住民の高齢化がひどくならない間に避難指示を解除できなかったのは、除染の範囲が広く、帰還困難区域の高濃度の汚染は年数が経つことで放射能が半減期により確実に低下することもあり、仕方がないことと考えがちだが、避難先や元の町で除染作業を見た限り、除染の対象地域や、やり方にも問題があった。

帰還困難区域の除染が遅れた

 福島県内の除染は低線量のところ、人口の多いところから優先的に行われた。例えば、富岡町の西に位置する川内村は真っ先に避難指示が解除されて住民が戻れたところだが、線量は低かった。それでも家屋やその敷地を中心に念入りな除染が行われた。

JR郡山駅前の通路と植え込みの除染の様子=2015年1月21日JR郡山駅前の通路と植え込みの除染の様子=2015年1月21日、筆者撮影
 さらにその後に力を入れて除染が行われたのが、中通りの郡山市、福島市などの都市部だ。私は郡山市(人口約32万人)の南隣りの須賀川市(人口約7万4千人)で避難生活をしていたが、環境省から委託された業者が各戸を訪問し、建物や敷地の線量測定をし、除染をするかどうか住民に御用聞きをしていた。

 何軒かに一軒は除染をしてもらったようだが、そのやり方は建物の周りに足場を掛けて屋根や壁を高圧水で洗浄し、敷地は表土を剥いで山砂に入れ替えるという大規模な工事だった。市内にそのための業者詰所や機材置き場が数ヶ月間あったのを見ている。剥ぎ取った土壌はその家の庭か、近くの空き地に埋設され、数年後には掘り起こされてダンプカーで中間貯蔵まで高速道路を使って運ばれた。

 JR郡山駅前では人通りの多い通路脇の花壇の土の入れ替えと、石畳の洗浄が行われ、国道4号では一部通行止めをして路肩の除染も行われた。これら一連の除染は膨大な予算が使われた。

 その頃、富岡町の帰還困難区域は、町内の早期避難指示解除を計画している区域の除染で出た汚染土壌を詰めた通称フレコンバックと呼ばれる黒いビニール袋が山のように積まれ、双葉町と大熊町の境界にできた中間貯蔵施設に運びこまれるのを待っていた。いまだに黒い袋は全部片付いていないし、新たに仕分け場もできている。長い間、解除を待たされている帰還困難区域の除染は遅々として進んでいない。

 要するに、帰還困難区域の住民は、彼らの帰還の意思に関係なく、帰還が後回しにされたのだ。