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村上春樹をめぐる暴論に固執して

四ノ原恒憲 四ノ原恒憲(朝日新聞文化グループ)

 馬齢を重ねることは、誠に寂しい。覚え間違いなど日常茶飯事なんです。けれど、それがほんの時たま、怪我の功名となることもある。その底にある、無意識の「本音」に、ふと、気づかされるからだ。ノーベル文学賞が取り沙汰されたこの時期、村上春樹の短編の何かを読み直してみようと思い立ち、妙に印象に残っていた一編のタイトルを思いだした。確か「1960年型青春」だと。

 どこを探してもそんな短編はない。いろいろ斜め読みするうちに、ありましたね。記憶とピッタリ一致する一編が。タイトルはまったく違う。「我らの時代のフォークロア――高度資本主義前史」。でも、この記憶違いが示唆したものが、実は、デビュー作『風の歌を聴け』に魅入られて以来、時に好き嫌いはあっても、春樹の作品に、ずいぶん長く付き合ってこられた理由なのかもしれない、などと思ってしまった。

 短編集『TVピープル』に収められた問題の短編は、語り手の僕が、60年代の高校時代にクラスで最も成績優秀だった男女カップルの恋愛の奇妙な行く末を、二十数年後、偶然再会したその片割れ男性から明かされる、という物語だ。文中に僕(春樹と同じ49年生まれ)が「明日もしれぬワイルドな空気」に満ちたと書く、60年代の新旧が交錯する性倫理観を背景にした物語は、様々な読み方が可能だろうが、間違った記憶の「タイトル」が示す通り、単に少し変わった「青春恋愛小説」と読み込み、自ら脳の記憶庫にしまい込まれていたわけだ。

 友人に春樹の作品で何が好きかと問われれば、

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