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新連載【論壇女子部が行く!】 古市憲寿(下)――もしかしたら希望って必要ないかもしれない

聞き手=論壇女子部

●「女こども」の世界をシェアしてください!

――前回おっしゃっていた「自分で考えて自分で行動するしかない」とういうのは、消費の世界もまさにそうですよね。『遠足型消費の時代――なぜ妻はコストコに行きたがるのか?』(中沢明子と共著、朝日新書)はまさに私たち女子の消費の話でした。出てくるエピソードはもともと知っていたことが多かったんですけど、分析的に考えたことはなかったので、自分たちを客観的に捉えなおすことができました。

 いやぁ、ちょうどこれ発売日が3月11日だったんです。こんなふわふわした感じの本が地震のときに出ちゃって、という感じでしたよね。

――でも、本の売れ行きに関してはすごく影響があったかもしれないですけど、内容は3・11以降も有効だと思うんです。3・11の直後はともかく、そのあとの消費活動がそう大きく変わっていくとは思えなくて……。

『遠足型消費の時代――なぜ妻はコストコに行きたがるのか?』(中沢明子と共著、朝日新書)

古市 そうですね、意外とそう変わっていない。逆に日常の強さみたいなものが浮き彫りになったかなと思います。何があっても日常とか人の営みってそんなに簡単には変わらないんでしょうね。この本も、身近な消費とか身近な関係の大切さみたいなことをテーマの一つにしていて、最終章ではそういうこともけっこう書きました。だけど、この帯はもうちょっと変えたほうがよかったかな……。

――帯もご自分で書かれたんですか?

古市 はい、自分で……。

――えぇー!! お上手ですね! すごい!!

古市 いやぁ……。『希望難民ご一行様』の最後の2ページで内容がわかるマンガも頑張って書いたんで、それもできたらチェックしてみて下さい。

――この本は、おじさま方に向けて書かれているんですよね?

古市 そうです。朝日新書は読者の平均年齢が高いと聞いたので、そういうおじさんに向けて、「女こども」の世界をシェアして欲しいなと思って書きました。

――私たちが読むと、納得の連続なんですが、おじさまからの反響はいかがでしたか?

古市 そうですね、『プレジデント』(プレジデント社)に書評を載せていただいたり、ある程度は狙ったおじさんに読んでいただけたのかなと思います。

●自分が親へ看取られることのリアリティ?

――「上の世代」でいえば、もっとも身近な「上の世代」って、自分の親ですよね。先日出された『上野先生、勝手に死なれちゃ困ります――僕らの介護不安に答えてください』(光文社新書)の中で、「自分が親を看取るよりも、親が自分を看取るという状況のほうがリアリティを感じる」っていうことを書かれていて、それはちょっと考えにくいなと思って驚いたんですけれども、本当にそう思っていらっしゃるんですか?

古市 「親、死ぬ、怖い」で検索すると、結構たくさん僕と同じような人の意見が見つかりますよ。

――そしてすごいタイトルですよね!

古市 上野先生の『おひとりさまの老後』(法研)が「これで安心して死ねるかしら」っていう帯だったんですね。でも、残されたものとしては勝手に死なれたら困るというか……。上野先生もそうだし、自分の親にしても勝手に死なれたら困る。それでこういうタイトルになりました。

――なるほど。これはどういうきっかけで書かれたんですか?

ふるいち・のりとし 1985年、東京都生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程在籍。慶應義塾大学SFC研究所訪問研究員(上席)。有限会社ゼント執行役。著書に『絶望の国の幸福な若者たち』、『上野先生、勝手に死なれちゃ困ります――僕らの介護不安に答えてください』(共著)、『希望難民ご一行様――ピースボートと「承認の共同体」幻想』(光文社新書)、『遠足型消費の時代――なぜ妻はコストコに行きたがるのか?』(共著)

古市 僕の親が晩婚で、今60歳くらいなんですね。それで最近ちょっと老いを感じるようになってきて。別にボケてはいないんですけど、前はできたことができなくなったり、地デジのことをいくら説明してもわからなかったり、あとは話すスピードが遅くなったりとか。だから、要介護状態とかになって完全に倒れちゃう前に、親子の間でできること、話し合っておくべきことはなんだろうっていうことを取っ掛かりに書きました。

――この本では、『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社)よりも、若者の問題についてさらに踏み込んだ内容になっていますよね。不安があるけど不満はない若者に対して、上野先生から「当事者性」を持つことの大事さが容赦なく突きつけられていました。この本を著した前と後とで、若者における当事者性について考えが変わった点はありますか?

古市 当事者性をより肯定的に捉えられるようになったかなとは思います。

――社会において「二級市民」であってきた「女性」と低成長時代に突入した現代日本の「若者」の置かれている状況が似ているということが強調されていましたけれど、今後女性と若者は連帯できると思われますか? できるとしたら今後日本で具体的にどのようなかたちで起こり得るでしょうか。

古市 理念としての連帯はできると思うのですが、実は「女性」も「若者」も階級という変数を考慮せずに「一億総中流」を前提にした時代だからこそ意味を持っていた概念です。連帯が起こるとしたら個別のケースでしょうね。でも「男の子の女性化」がこれだけ叫ばれている中で、そもそも連帯というか属性自体が近づきつつある気がします。

●身近な関係性の大切さ

――先ほどもお話に出ましたけれども、古市さんは、テーマは違えども、「身近な関係性の大切さ」をベースにしているというところで一貫していると思うんです。それは自然と出てきたお考えなんですか? 「言論人」の中ではわりと珍しいタイプなのかなと思うんですが。

古市 なんでしょうね? 実際に仕事をしていると、ボトルネックになるのは、本当にどうしようもない人間関係だったり、やりとりの行き違いだったりして、大きなかっこいい理論なんてまったく役に立たないんですよ。ビジネス書が格好よく連ねるカタカナ語なんて、まず無駄。人を説得するにしても、ほとんど論理とかは関係なくて、属人的な愛嬌や笑顔やそれまでの人間関係の影響のほうがよっぽど大きい。そういうことで人や社会は動いていくということを、僕は働いてみて実感しました。だから、大きいことを振りかざしてみても意味がないとまでは言わないけれど、それは僕のすべきことではないと思ったんです。逆にその状況の中でもなお人が頑張れることがあるとしたら、やっぱり自分もしくは自分の大事な人のために動くことしかないし、そこにしか持続可能なものはない気がするんです。

 東日本大震災が象徴的ですけど、一時は日本中がボランティアブームや「がんばろう、ニッポン」という機運で盛り上がったにもかかわらず、今ではかなり忘れられてしまっている。でも、福島で生きている人や小さい子供のいるお母さんはそうは言っていられない。結局、人がやることって自分の利害に直結するものでないと続いていかない、だから、そこからスタートするしかないっていうのは、日々生活しながら僕が思ってきたことです。「身近な関係性の大切さ」で一貫している、というのはそういうことなんだと思います。

――先日、古市さんがtwitterで、震災後のこういう状況の中で「希望があるとすればなんなのか」といったことをつぶやかれていたのが印象的でした。

古市 あー、寝起きでなんか書いたかもしれないですね。

――(笑)。たとえば「地元が大切」っていうときも、「その土地そのもの」が大切ということもあるけれども、そればかりじゃなくて、「大切な人がいる場所」が大切ということもあるわけで……ということをつぶやかれていたと思うのですが。

東京・品川で

古市 そうですね。昔、ピースボートに乗ったとき、船に穴があいて足止めをくったんですけど、その間にフロリダの写真美術館に行きました。そこに子供たちのワークショップが展示してあったんです。「もしもこの町がなくなってしまったら」っていうテーマで、「あなたがこの町の象徴と思う大事なものを撮ってきて下さい」みたいな感じで、子供たちが撮影した写真が集められていたんです。

 そうしたら、ほとんどの写真の被写体は人間だったんですよ。自分のお母さんとか、おじいちゃんとか。建物なんかは少なくて。だから人って、その土地に生きているということ自体よりも、人との関係性の中で生きていて、そっちのほうが比重が大きいんだって思いました。

 そういうことを考えると、絶対にその場所で過ごしていかなくてはいけないということはないのかもしれない。例えば東北のこれからを考えるときも、そもそも東北が米どころになったのは、そんなに古いことじゃないし、人が伝統であるとか慣習だと思っていることって、そこまで永久でも不変でもないことが多いので……ということをぼんやり考えてつぶやきました。

――「週刊読書人」で、『「フクシマ」論――原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)が話題になっている同世代の社会学者・開沼博さんと対談をされていましたよね。ここでも「希望」について触れられていて。

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