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『ヒューゴの不思議な発明』をより深く味わうために――(上)映画の可能性を広げたメリエス

古賀太

古賀太 日本大学芸術学部映画学科教授(映画史、映像/アートマネジメント)

 アカデミー賞で5部門を受賞した『ヒューゴの不思議な発明』(以下『ヒューゴ』、マーチン・スコセッシ監督)は、映画の草創期をかなり正確に描いた、ハリウッドのメジャーとしては珍しい作品である。もちろん事前の知識がなくても十分に楽しめるが、初期映画史、とりわけジョルジュ・メリエスについて知っていると何倍も楽しめるはずだ。

『ヒューゴの不思議な発明』

 本稿では、メリエスを始めとして、『ヒューゴ』に使われた何本もの無声映画について解説していくので、見る前でも後でも役に立つと思う。

 「映画の誕生」というと、普通はリュミエール兄弟やエジソンが挙げられるが、実際はそう簡単ではない。1880年代には、アメリカ、フランス、ドイツ、イギリスで動く写真がほぼ完成していた。確かなことは、父親が写真のガラス乾板で大儲けしたリュミエール兄弟と、蓄音機や電球などの発明で巨万の富を築いたエジソンの二者だけが、大きな資本を投下して組織的な撮影や興行ができたということだ。そして彼らの名前だけが今日残っている。

 リュミエール兄弟は、まず家族や自分の工場をカメラに収めた。『ヒューゴ』で見ることのできる『列車の到着』は、兄弟が別荘を持っていた南仏のラ・シオタ駅を撮ったものだし、ホームを歩く人々の多くは実はリュミエール家の人々だ。同じく『ヒューゴ』に出てくる『工場の出口』は、リヨンの自社工場を撮ったものだ。ちなみに映画でも列車に驚いた観客が逃げるシーンがあるが、あれは後年作られた話。

 エジソンは、自らが発明したのではなく、助手のウィリアム・K・L・ディクソンが開発した。ディクソンは『ヒューゴ』の図書館のシーンで、『バイオリンを弾くディクソン』で見ることができる。

 エジソンは、自らのスタジオに名前の売れている芸人やボクサーなどを連れてきて撮影した。ドキュメンタリー的なリュミエール兄弟の作品と違って、アメリカらしく最初からエンタテインメントを目指したのだ。しかし両者の映画とも長さは1分前後で、カメラは動かず編集もない。もちろん物語もない。あくまで見世物小屋で見せる気晴らしとしての映像だった。

 映画がそうした見世物から今日の映画へ向けて大きく羽ばたくきっかけを作ったのが、『ヒューゴ』でベン・キングズレーが演じるジョルジュ・メリエス(1861-1938)である。彼は製靴業を営む父親の三男坊として生まれたが、兄たちと違って家業を継がず、奇術師を目指した。父親の財産を生前に譲り受け、そのお金でロベール=ウーダン劇場を買い取る。典型的なドラ息子のパターンだ。

 ジャン=ウジェーヌ・ロベール=ウーダンは、「近代奇術の父」と呼ばれ、自らの名を付けた劇場で奇術ショーを繰り広げていた。ヒューゴ少年が父の形見として保管している機械人形(映画ではこう呼ばれるが、通常は「自動人形」)は、ロベール=ウーダンの手になるものだ。彼の死後メリエスが劇場を買い取った時、舞台装置と共に完全な状態の10体の機械人形も受け取った。機械人形のショーは、人気プログラムだった。

 メリエスは、この劇場を牙城に連夜奇術のショーを繰り広げる。

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