メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

【論壇女子部が行く!(2)】 千葉雅也(上)――自分が楽しいということを譲らない

聞き手=論壇女子部

若手社会学者・古市憲寿さんに続きご登場いただいたのは、ジル・ドゥルーズ哲学を大胆に定義した博士論文をまとめ、初となる単著の刊行が待たれる哲学者/批評家の千葉雅也さん。ヤンキーファッションに身を包み、美術家や詩人たちとのクロストークをつづけ、セクシュアリティからファッションまでジャンル横断的な批評活動で活躍の場を広げる異色の研究者。軽やかでいて大胆、俗っぽさをもかっこよさに変えてしまう文体とたたずまいから目が離せません。その知られざる素顔に迫りたい! 実存を根底から問い、哲学・批評の新時代の幕開けを思わせる千葉さんに、混迷の時代を切り開くための思想のありか、「哲学」の実践を訊きました。

●僕らの日常には切断があふれている

――ちょうど博士論文の審査を終わられたということで、おめでとうございます。秋には出版されるそうで、みなさん注目していると思うんですけれど、まずは博論の内容について簡単に教えていただけますか。

千葉 ありがとうございます。博論は「ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学」というタイトルでして、ドゥルーズの「生成変化」という概念を扱いました。英語では「becoming」ですね。自分の一個のアイデンティティに執着するのではなくて、多様な他のしかたでの自分へ変わっていくということ。これを僕なりに再解釈しています。

 日本でも世界でも、今までドゥルーズの哲学、およびドゥルーズと精神分析家のフェリックス・ガタリが共作した哲学(二人のユニットを通称ドゥルーズ+ガタリと呼ぶ)については、いろいろなものごとが多方向につながってミックスされていく、みたいな世界観として受容されてきたと思います。ものごとの価値づけのヒエラルキーから逃走して、横へ水平的に広がっていく「リゾーム」(地下茎)としての関係性を肯定する、そういう感じですね。

千葉雅也(ちば・まさや) 哲学者/批評家。1978年生まれ。東京大学教養学部超域文化科学科・表象文化論分科卒業後、パリ第10大学大学院哲学科などを経て、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻(表象文化論コース)から博士号(学術)取得。ジル・ドゥルーズなどのフランス現代哲学、美術・文学・音楽・ファッションの表象文化論、セクシュアリティの問題などを研究。慶應義塾大学非常勤講師。2012年秋ごろ、初の単著となる『ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(仮題)を発表予定。撮影=佐藤類

 けれども僕の読みでは、いろいろな方向への接続と同時に「切断」も起きているということを重視しています。僕らは、遠い他者とでも関係を持てるけれど、同時にあちこちで関係が切れたり、いろいろ忘れたりしている。関係を切断されてしまう/してしまうことが、じつはクリエイティヴに重要なんだと強調している読解なんです。

 このことは、ドゥルーズ+ガタリ『千のプラトー――資本主義と分裂症』(河出文庫)の序論「リゾーム」からも見えてくるんですが、切断や分離といったテーマは単独でのドゥルーズにおいても重要で、僕の博論では、その理論的な基礎をドゥルーズの第一著作であるデヴィッド・ヒューム論『経験論と主体性――ヒュームにおける人間的自然についての試論』(河出書房新社)にまでさかのぼって検討するのが特徴です。ドゥルーズのヒューム主義を重視するんです。

 今までドゥルーズ+ガタリの哲学は、僕らがどんなに離れたところで別々のことをしていても、どこかで、いや存在の根底において、みんなつながっている、だからもっと連帯できるように頑張ろう、といった励ましとして読まれがちだったと思います。ネグリ+ハートがいう「マルチチュード」(多数多様の人々)によるグローバル資本主義への抵抗という考えも、だいたいそんなドゥルーズ+ガタリ観をベースにしているわけです。

 それはそれで元気になる気もする。でも、僕らが現実的に考慮できる責任は、ありとあらゆることには及ばないでしょう? 僕らは「有限」ですよね。逆に、「私はありとあらゆることに無限の責任を負っている」と考えるのはディープに倫理的でしょうけど、これをマジに引き受けちゃったら鬱病です。こういう言い方をしちゃうと、「僕らはそもそも有限だからあんまり頑張らなくていいんだ」といった癒しの一種に聞こえかねないかな。

 でも、言いたいことはそうじゃない。有限っていうのは、万事について頑張りきれないということじゃない。僕としては、頑張れる部分もあるし、あまり頑張れない部分もあるという、頑張りの「まだら模様」みたいなことを考えたいんです。もっと抽象的に言うと、有限な僕らには、さまざまな、大きかったり小さかったりする他者へのチャンネルがあって、いろいろなことができたりできなかったりするということです。

 僕らの「有限性の輪郭」はギザギザになっている。だから、みんなが全面的に満足できる社会とか革命はあり得ないんです。僕らが一緒に共生するためには、それぞれのギザギザを、うまく出会わせるだけでなく、うまくすれ違わせることも重要だと思っています。

――『思想地図β vol.1』(合同会社コンテクチュアズ)に発表された「インフラクリティーク序説――ドゥルーズ『意味の論理学』からポスト人文学へ」でも、たとえばTwitterのように、オンオフを選択することでコミュニケーションが成立したり/しなかったり、といった問題も扱われていましたよね。

千葉 そうですね。さらに「インフラクリティーク序説」では――これも博論をまとめた本に含まれる予定ですが――物理的な限界の話もしていました。現代フランスのカトリーヌ・マラブ―の哲学にもとづいて、脳損傷やアルツハイマー病で記憶が消えてしまう場合のことを書いています。僕としては、人格が丸ごと変わってしまうというより、部分的に変化したり忘却したりということに興味があります。僕らの日常生活でも、部分的に忘れたり関係が途切れたりするわけで、人格が丸ごと変わるような極端を考えなくても、部分的な切断ならば至るところにある。

 あちこちで切れていたり抜けていたりという状態を、僕はよく「多孔的」と形容しています。先ほど、有限性の輪郭はギザギザと言ったけれど、それに対応して、僕らの記憶・歴史は孔だらけ、多孔的になっている。僕の「インフラクリティーク」というのは、人格や社会の即物的なインフラ、一人一人の脳の状態や、インターネットのサーバーを維持する電気や、もっと広く言うなら、水道、道路、そして大地そのものが、いつでもあちこちでちょっと故障して切断されたりつながったりしている、つまり多孔的であると考えて、そういう基礎のところのダメージあるいは「インフラの出来事」と、芸術やポップカルチャーの関係について批評することです。

――震災以後、「つながる」とか「絆」といった言葉で現実が語られていて、それは千葉さんの「接続と同時に切断がある」という哲学とは逆に行ってしまっているような気がするんですけれども、千葉さんは震災以後の現在をどう捉えていらっしゃいますか。

千葉 みんなでベストに頑張るという言い方は一つの「方便」として必要かもしれないけど、やはり「したりしなかったりする」ということが、すごく大事だと思うんです。頑張ったり頑張らなかったりする。あるいは、頑張らなかったり頑張ったりする。

 この「したりしなかったりする」というのはいい加減なことに思われやすいので、哲学的にきちんと考えている人は少ないと思うんです。するのかしないのか、どちらかに決めないでいると、矛盾した立場になることもあると思われます。でも「したりしなかったりする」ってどういうことなのか。強い一貫性をもたないというか、一貫性を多孔化すること。これは今後、僕なりの厳密さで、倫理学的な問いとして考えてみたいところです。

 それにしても「インフラクリティーク序説」を書いたのは地震の前ですから、ある意味、考えていた問題と近いことが現実に起こってしまって、地震の後は本当に戸惑いました。

――「インフラクリティーク序説」と大震災という出来事が共振したようなところがあったということですが、それも決して偶然ではなくて必然だったのかなと。「つながる/つながらない」という視点をもつきっかけは何か以前からあったんですか?

千葉 たとえば、村上春樹みたいに言うと、政治的なコミットメント(関わり)とデタッチメント(関わりのなさ)のあいだの行き来という問題がありますね。これは僕にとっても問題で、つまり、何らか社会的にリアルな課題にぐっと突っ込むか、多少アイロニカルに距離を取っておくかというバランスをいつも考えています。

 ここ最近は、なにより震災のことがあるから、デタッチメントにいくことを恥じるような社会の空気がありますが、それはおかしいと思う。コミットメントへの社会的な圧力は、過剰になるとパラノイアック(妄想的)になるし、それに乗りすぎる人は躁的に、それに潰される人は鬱的になります。これは一般論だと思うけど、各人の立場から効果的なコミットメントをするには、どこかで部分的に引いている、デタッチメントしていることが必須だと思うんですね。

 だから僕は、社会との関わりも「多孔的」に考えているわけです。まんべんなく均質にではなくて、あるところに集中して関心があったり、どこか漏れていたりする。そういうふうに、社会と関わったり関わらなかったりということです。これは、難しい言葉を使わなくても当たり前のことだと思う。でも、人々をまとめて動員しようとする圧力はいつの時代にもあって、そういう圧力はたいがい、浪花節というか俗っぽく心温まるような言葉で人を誘惑してくるものです。そこから身をかわすには、クールに抽象的な言葉こそが必要で、それで風通しをよくするんですよ。

●犠牲にされるな、ナルシシズムを徹底せよ!

――千葉さん自身、日常の中で何かに関わる、関わらないという、その線引きの基準はどこにあるんでしょうか。

千葉 まずもって自分が楽しいということ、それを譲らないのが一番です。この基準はすごく大事だと思う。実際、何か譲歩したり、犠牲にならなきゃいけないことが出てきたら僕はできるだけ引きますし、犠牲になりたくないという思いがいつもあります。これはワガママじゃない。断固として、ほかの人にも犠牲にされるなと言いたいですね。事情の難しさはそれぞれとしても、犠牲にされない工夫をする。知性はそのためにあります。

 自分のナルシシズムのようなものを大事にすることです。でも、それはすごく難しいんですよ。「あの人はナルシスティックだ」と言うとバカにしているみたいだけど、いやいや、中途半端なナルシシズムならたやすいかもしれませんが、断固としてナルシシズムを徹底するというのはきわめて難しいことなんです。そのためには、何らかの技術が要る。

 逆に、自分を愛することができなくて「他者のため」という正義みたいな感じに巻き込まれ、まるで訳が分からなくなっていく人のほうがよほど多い。しかしこの点、強度の高いナルシシズムを持っている人は冷静な判断ができると思っています。僕自身それを達成できているかどうかはともかく、少なくともいつも心がけてはいることです。

 確か、フロイトがナルシシズムについて書いた文章の中で、ナルシシズムの高い人間がある種の魅力を発揮してカリスマ的になるということを分析していて、動物というのはそういうナルシスティックな存在なんじゃないかと書いている。つまり動物は、過剰なしかたで他者に依存しておらず、それ自体で生が充実しているということでしょう。

 ドゥルーズだったら、このことをセルフエンジョイメント(自己享楽)と言います。そういう存在は、周りから見てちょっといいなと思えるんですよ。なぜかというと、そこに「切断」があるからです。集団的なパラノイアから自由だということ。猫なら猫だけで隔絶した生のなかにいる。僕は猫が好きなんですよ。猫って、人間を構ってくれなかったり構ってくれたりするでしょう。猫は多孔的ですね。セルフエンジョイメントに内在的であって、切断されている。言い換えると、小さくシャープな「個体性」をうまく維持して、大きな犠牲に巻き込まれないようにする、そういうスタンスを僕はドゥルーズ哲学から学びました。これは一つの存在論であると同時に、美学的な問題でもありますね。

●ヤンキーではなく、ポストヤンキー

――美学的な問題」という言葉からつなげていいのか分からないですけど、今日のファッションのポイントは(笑)。

千葉 それはかなり違う話ですけど(笑)、まあ思いはいろいろですが、一言で言うと「ポストヤンキー」でしょうか。そんなまじめに語ることではないけど(笑)、ツッパリのヤンキー以後、ギャル/ギャル男は、渋カジとチーマーを経ての西海岸風のテイストへ移ったわけです。けれど、その中にも、旧ヤンキー的な和物のアイテムとかイメージも混ざっていて、それのギャル文化とのハイブリッドをおもしろく思ってるんです。

 だからというわけでもないんだけど、僕も先日、ギャル文脈のブランドで和柄っぽいものを買ったので、

・・・ログインして読む
(残り:約3343文字/本文:約8518文字)